*** 2005年8月24日 ハンガリー・ブダペスト ***

1.ブダペスト
経済工科大学
2.市電 3.鎖橋 4.鎖橋と国会議事堂 5.国会議事堂
6.ワルトブルク
(トラバントの上級車)
7.ソ連製ジグリ 8.前を走る
トラバント
9.ブダペスト
メインストリート
10.ぎぼし風屋根
11.英雄広場1 12.英雄広場2 13.英雄広場3 14.英雄広場4

 8月24日(火)朝、特急列車でウイーン南駅に戻る。この間のDr.F.Rとの出会いの話は、"2005年8月21日,22日ヨーロッパ" に記載してあるので省略する。列車は遅れることなく無事南駅に到着する。ここから鈍行に乗り換え、ウイーン中央駅に 向かう。この駅から空港までは、CAT(NEXのような特急列車)が僅か16分で結んでいる。更には、スターアライアンス関連 のチェックインカウンターまであり、非常に便利である。OS719便(ウイーン→ブダペスト)出発まで十分余裕はあったが、 ここで搭乗手続きを済ます。  午後2時過ぎに、予定通りブダペスト空港に到着する。空港には、ミシュコルツ大学のProf.L.Kalmarがピックアップ に来てくださる。ハンガリーはこれで三度目の訪問、彼との再会は1年半ぶりである。所で、首都ブダ・ペストの名前は、 ドナウ川を挟んで西側のブダと、東側のペストが合わさったものである。ブダ側は、岩山に王宮や歴史的建造物が建ち 起伏に富んでいるが、ペスト側は行政/商業が中心の平坦地で全く景観が異なる。
 ここから、東部の工業都市ミシュコルツまで、車で約3時間の行程だが、その前にブダペストの町を案内して頂く。 先ずブダベスト経済工科大学前に駐車し、ここから川沿いに自由橋,エリザベート橋,鎖橋と北上する。結局、ブダ側を 延々3kmも歩き、国会議事堂が望める場所に到る。教会らしき建物もあり、ドナウ河畔に一体となって悠然と建っている。 Kalmar先生の話だと、19世紀のハンガリー人建築家の設計とのことであるが、オーストリア・ハンガリー二重帝国下に あって、オーストリアの影響も感じられる。いずれにしても、中々荘厳且つ格調の高い建築物である。ここから、元の 駐車場に戻る。そこには、旧東独時代の"迷車"トラバントの上級車"ワルトブルグ"や、旧ソ連製"ジグリ"が見られる。
 次に、車でペスト側の英雄広場に案内して頂く。中央の塔の周りを、初代ハンガリー国王アルバード(在位896~907年) 他6名の王が囲っている。何れも精悍な顔付きで、勇猛果敢なマジャール族の特徴が旨く表現されている。その背面には、 左右に分かれて7人の国王他の立像が並んでいる。嘗ては、オーストリア皇帝の像もあったが、第二次大戦後にハンガリー 人と入れ替わったそうである。  ここで、この国の歴史を垣間見る。嘗ての騎馬民族が9世紀後半に現在の地に定着し、15世紀までは大帝国として大いに 栄えたものの、その後オスマントルコの侵入,ハプスブルグ家の永年に渡る支配,第二次大戦後の旧ソ連の侵攻を経て、 1990年になってやっと民族自決の国家に生まれ変わったわけである。2004年にはEUにも加盟し、東欧圏の有力国をして、 急速に力をつけつつある。  一方、ハンガリー人の氏名は姓が先にきたり、赤ん坊の多くに蒙古斑が現れる等、アジア系民族の伝統と特徴を未だに 有している。日本人とは似ても似つかない風貌だが、話をしていて相通じるものがあるのは、共通の血のせいであろうか。 ここから大通を抜けて、ミシュコルツに向かう。
 今回、ミシュコルツ大との交流協定打診のため、ハンガリーを訪問した。Kalmar先生には、ブダペスト空港でのピック アップだけでなく、精力的にブダペストの名所まで御案内頂いた。ミシュコルツ到着は、夜9時を過ぎてしまったが、その あと腹を割って話し合った結果、交流協定を締結することで基本合意に到った。改めてKalmer先生の御厚情に深謝したい。

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