*** 2010年3月27日~28日 カラコルム ***
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No.1~No.18が3月27日, No.19~54が28日です。
3月26日(金)~4月2日(金)にかけて、S旅行が主催した"カラコルム大展望花の桃源郷フンザ滞在"のツアーに出かける。古来から、シルクロードの桃源郷として、玄奘三蔵を初め多くの旅人が行き交った場所である。第二次大戦前後は、英国の登山家(スパイ?)エリック・E・シプトンとその朋友ハロルド・W・ティルマンが探検した山岳地帯でもある。二人の旅行記は、夫々「ダッタンの山々」,「カラコルムからパミールへ」に詳しい。私も、若かりし頃から、これらの探検記を愛読し、思いをはせてきたが、大学を退官する節目に、やっと永年の夢が実現したことになる。所が、この間ドラブル続出し、夢が叶うどころか苦難の旅に終わる。これは、自然災害ではなく、明らかにS社添乗員N氏の不手際による人災である。以下、旅の詳細について記す。 11:00、成田第二ターミナル前に集合。参加者は12人、内訳は男性3名女性9名と大多数が女性である。しかも、7名の女性が、御主人を置いての単独参加である。所で、今回のツアーには、帰国時に機中泊が含まれており、睡眠不足に弱い私は、ビジネスクラスを申し込む。通関後、ラウンジで時間を潰していると、もう一人のツアー客の方が、笑顔で挨拶される。実にさわやかな方である。聞けば、何と私とひらがな姓が同一で、我が愚妻と髪型もそっくり、しかもイニシャルまで同じである。ここまで一致するのは、極めて低い確率と思われるが、これも何かのご縁であろう。 定刻14:00、パキスタン航空PK853便は北京に向け出発する。所がこの飛行機、エアバス社初期のA310型である。ざっと言って、20年以上前の老朽機であろうか。別途、WEB上で調べた所、A310型の初就航が1983年、生産中止が1998年とのことなので、あながち見当外れの予想では無かろう。なお、機体の疲労寿命は20年と言われているので、何時墜落してもおかしくない状態である。少なくとも、今回の旅行中は、何事もないことを願うばかりである。 北京空港では、機内にて1時間半も缶詰状態になったが、無事イスラマバードに向けて離陸する。ビジネスクラスの席も、中パのビジネスマンで、満席である。途中、月明かりに幻想的に浮かび上がる雪山を通過する。位置からして、ヒマラヤであろうか? そうこうするうちに、イスラマバードに近づいてくるが、何となく様子が変である。機内アナウンスによると、"サンダーストーム"のため、着陸不可とのこと。何度か着陸を試みた模様だが、結局着陸を諦め、約300km南のラホールに向かう。今夜は、この近くのホテルで一泊と思いきや、何と機内で延々5時間も待機させられることになる。この間、1時間毎にイスラマバード空港の状況がアナウンスされ、安心して寝ていられない。結局、添乗員N氏が席に説明に来ることもなく、イスラマバードに舞い戻る。別途、このときのN氏の状況を、ツアー客に確認した所、何とこの緊急事態に、ずっと眠っていたとか! 緊急時の対応が極めて甘く、これだけでも添乗員失格である。 27日(土)04:00、一睡もできないまま、イスラマバード空港に到着する。早速、宿泊予定だったホテルで一息入れるところだが、同社の他グループの荷物が出てこないとかで、N氏の判断で、ベルト前で延々1時間も待たされることになる。当初、同じバスを利用するためかと思ったが、何とバスは別々。ホテルでは、10分間で朝食をとった後、空港にとんぼ返りである。この間、シャワーは勿論、お化粧/歯磨きする時間も満足に取れず、特に女性人から不満が出る。結局、ギルギット行きの飛行機は飛ばず、延々500km以上も、小形バスで中間点のチラスに向かうことになる。3時間も走ったであろうか、カラコルムの雪山が、初めて顔を出す。ここで、素早くこの雄姿を撮影して車中に戻る。ただ、その後も間曲りくねった悪路を飛ばすため、普段車酔いしない私も、気分が悪くなる。次のトイレ休憩時に、N氏に薬を求めても、スーツケースの中なので取り出せないと、そっけない。本来なら、客の異常事態に備えて、最低限の薬は用意すべきであろう。案の定、一人の女性客が気分が悪くなり、停車を求める。彼女は、車外で胃の内容物を吐き、車中に戻るが、この間N氏は薬を与えることも介抱もせず、車中にて待機である。移動中も、運転席の後列で、客の肩を枕に、何時も居眠り。正に、添乗員の風上にも置けない輩である。 カラコルムハイウエー(以下KKH)の真っ只中に入ると、幹道の周辺に並ぶ民家の他に、急斜面にへばりつく様な家が点在する。目だった小道もなく、どうやってそこまで辿り着けるのか不明だが、薪拾い等を生業としているため生活は貧しく、子供も満足に学校に行けない状態とか。一方、町の境界には検問所があり、自動小銃を担げた武装警官が、車内に乗り込んでくる。正にテロ多発国家の緊張が、直に接伝わってくる。所で、KKHは現在も各所で拡幅工事が行われており、それを指揮するのは、何と中国人技術者である。このインフラ整備のための資金も、当然中国から大部分が出ているのであろうが、その目的は改めて説明するまでもない。近年、中国のアジ地域に対する進出は凄まじく、嘗ての親日国が親中国に変化している。ミャンマー,カンボジア,タイ等、枚挙に暇がない。そんな話を、Yさんとしつつ、この悪路を10数時間かけて走破し、午後11時過ぎやっと本日の宿に到着する。深夜の夕食をめぐって、参加者とN添乗員とひと悶着あったが、内容は省略する。 28日(日)、インダスの朝が開ける。ホテルの背後には、雄大な雪山が顔を出している。地図からすると、カマイン山(標高5493m)であろうか。これから次々と現れるであろう7000~8000m級の名峰が楽しみである。ここから、KKHを北東へとひた走る。途中、トイレ休憩を兼ねて、温泉が湧き出るタタパニにて停車する。水温は60℃以上もあろうか。意外な熱さに、思わず手を引っ込める。三大山脈ジャンクションポイント(ヒマラヤ,カラコルム,ヒンズークシ)にも近く、現在でも、造山運動が続いている証拠であろう。次に、世界第九位の高峰ナンガパルバット(標高8125m)のビューポイントを訪れる。生憎山頂付近には雲がかかり、その雄姿は拝めないが、この際、帰路に期待するしかない。ここから40分程走り、シャグロットに近づくと、その先が大渋滞している。何事かと思ったが、現地ガイドのH氏の話では、インダス川に架かる橋に亀裂が入り、現在通行禁止とか! また、仮橋を設置中だが、完成まで一週間程度を要するとか。正に万事休すである。結局ここで昼食を挟んで、延々3時間弱待たされる羽目になる。近くには、デコトラ(派手なデコレーションを施したトラック)が数珠繋ぎになっている。嘗て、デコトラといえば、英国のベッドフォード製ボンネット型と決まっていたが、今は日本のいすゞ/日野等のキャブオーバー型が大勢を占めている。それにしても、ここまでど派手にする目的は何なのであろうか?文化の違いといえばそれまでであるが、少なくとも私の感覚では、窺い知ることはできない。一方、気温は30℃を遥かに越し、日焼けを嫌う女性陣は、スカーフで完全武装である。Sさんなど、現地人と間違われるほど旨く化けられている。差し詰め、オサマ・ビン・ラディン第三婦人と言う所か。近くのチャイハナ(茶店)では、男性達が紅茶とナンで昼食の真っ最中である。我々日本人が珍しいのであろうか、鋭い目付きで睨み付けられる。当初、写真を撮るのを躊躇したが、思いきってカメラを向けると、意外と気軽に撮影に応じてくれる。更に撮ったばかりの画像を見せると、自分が写っているのを確認して、喜んで去ってゆく。これも、言葉を介さない一種のコミュニケーションである。 14:00前、やっと対岸に代車が到着したので、徒歩で人用の仮橋を渡る。車に乗り込むと、シートの表皮が捲れ上がった、相当の年代物である。ここから、本日の最終目的地カリマバードまで、果たして行き着けるかどうか不安である。これは、自動車会社にて、永年開発エンジニアをやってきた私の第六感である。この予感が、後に見事的中することになる。それでも、三大山脈ジャンクションポイントまでは、何事も無く進む。カラコルム(黒い砂礫)の名のとおり、中央の山肌は黒味がかっており、右手から流れ込む川水が、少し黒ずんでいるのが確認できる。 シルクロードのオアシス・ギルギットに着いたのが17:00前、トイレ休憩の後、更にカラコルムハイウエーを北上する。2時間程度走ったであろうか、夕闇迫る中、急遽人家の無い崖淵で、トイレ休憩となる。この間、私が用を足していた所、休憩時間内にも拘わらず、何と私を残して発車してしまう。大声で車を呼び止めたが、後の祭りである。50m位走ったところで車が止まったので、駆け寄り、私を置いて発車した理由を問いただすと、「だから、留まりました。」と嘯く。全く答えになっていない詭弁である。自分の非を認めず、こんなピント外れの答えをする人間は、本学の学生にもいない。別途、乗客に確認した所、その内の一人が、私がいないことに気がついて、運転手に停車を命じたとか。余りにもいい加減さに、怒りを通り越して、あきれるほかない。 この後、車両のトラブルが次から次と続く。先ず、エンジンがオーバーヒートし、偶々見つかったガソリンスタンドで、急遽冷却水を補給する。私も、長年トラックの開発設計に携わっていたため、オーバーヒートの後は、最悪ピストンが焼きつき、走行不能となることが十分想定できる。結局、エンジン再スタート時、回転不調であったものの、そのまま出発する。ところが、今度は車内に煙が充満し、異臭が漂うようになり、私が大声で停車とボンネント内のチェックを要求する。こんな事態になっても、彼は現地係員にお任せで、本人は車内でボケーとしているのみで、危機意識が全く感じられない。チェックの結果、車両火災の心配はないとのことで、そのまま出発する。所が、暫くすると、今度はギアーが入らなくなり、走行不能に陥る。漆黒の闇の中、懐中電灯の明かりで、トランスミッションケースを開け、修理が始まる。だが、ギアーオイルが高温になっていたため、運転手が手に火傷をする。先程の煙は、この油かラジエーターホースが焦げたもと推定できる。この先、この車がどうなるか判からないので、同時並行で、代車をカリマバードから派遣するように要求する。所が、彼はのらりくらりと、答えをはらかすのみである。押し問答の末、彼もしぶしぶ代車手配を認めたので、約40分遅れで出発する。 ところが、今度はヘッドランプが消灯してしまい、そんな中でも、懐中電灯を照らして、そのまま走行する始末である。正に危険運転そのもの。もし、穴凹にハンドルをとられ、谷底に転落でもしたら、誰が責任を取るのであろうか! 客の安全を無視した危険極まりない行為である。結局数分後に、運よくヘッドランプが点灯したので、そのまま走行する。ところが、代車とは行けども行けどもすれ違わない。結局、カリマバードのホテルに到着したあと、改めてその理由を彼に問いただすと、「このまま大丈夫と思ったので、途中でキャンセルしました。」と、悪びれずにのたまう。本当に代車は要求したか否か不明だが、彼のこれまでの言動からすると、それすら疑わしい。危険回避策も自ら立てられずに、成り行き任せ、正に彼の無責任極まりない本性が暴露された形である。しかしながら、私も今回の危険極まりないバスを、明日再使用しないことを確約させる。連日の深夜の到着と睡眠不足、疲労は極限にまで達していた。 |