*** 2010年3月31日 名峰ナンガパルバット ***
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3月31日(水)、殆ど眠れない中、6時出発。ギルギットを南下し、先ず三大山脈ジャンクションポイントで休憩する。南に目をやると、雄大な雪山が半分顔を出している。Hさんに伺うと、"チョングラ(標高6830m)"とか。ナンガパルバット山群の最東端に位置する名峰である。余談であるが、ジャンクションポイントから、東側の山稜(ヒマラヤ山脈)を辿って行くとこの山群に至るので、"ナンガパルバット(標高8125m)"は、ヒマラヤ山脈最西端の8000m峰ということになる。20分程で、最初のナンガパルバット・ビューポイントに到着する。早速下車すると、目のまえに、雄大なナンガパルバット山群が広がっている。最高峰ナンガパルバットの左には、"ライコット(標高7070m)","ブルダル(標高5602m)","チョングラ"と続く。超望遠の420mmで狙うと、ジェット気流がナンガパルバットの山頂に遮られ、雲が発生していることが判る。そのその直下には、超人ラインホルト・メスナーの弟ギュンター他、何人もの登山家
の命を奪ったディアメール壁(標高差3000m)が望める。所で、魔の山・ナンガパルバットの初登頂は、ドイツ・オーストリア合同登山隊による1953年。この時、ライコット氷河伝いに北面の氷壁に取り付き、ライコット経由で山頂を極めている。多くの隊員が脱落する中、オーストリアの天才クライマー・H.ブールは、何と単独・無酸素・無装備で登頂を果たしたとか。だが、彼はその4年後の1957年、カラコルムの"チョゴリザ(標高7654m)"で雪庇を踏み外し、帰らぬ人となっている。その翌年の1958年、京大隊(京都大学学士山岳会)がチョゴリザに初登頂した際、彼のテント,ピッケル他の遺品を発見し、その後未亡人に返還されている。ご参考までに芳賀孝郎隊員(当時)の手記を原文のまま紹介する。「チョゴリサは八月四日藤平・平井の両隊員によって一八時間のアルバイトの結果登頂された。アブリッジ公・ヘルマンブールを撃退した花嫁の峰も我々によって遂に登られた。チョゴリサ第四キャンプ6700m
の少し下がったところにヘルマンブールのテントが一年間の風雪に耐えて淋しく残されているのを発見した。その時あの超人的なヘルマンブールがまだ生き残っているような気がした。ブールの遭難は登山家としての運命的な遭遇と思うような気持ちになった。第四キャンプにて夜一人でカラコルムのきれいな星空を眺めているとブールの亡霊が出そうな薄気味悪い思いをしたことを思い出す。・・・」。私自身、単に初登頂者をWEB上でチェックするつもりが、調べていくうちに、不思議な繋がりがあることがわかる。即ち、今回共に参加したI氏と私が京大の同窓、私の一番親しい海外の知人が、オーストリアのW.Eichlseder教授(2009-08-28参照)である。この夏、彼のゼミの女子学生が、東工大に短期留学するのも何かのご縁であろうか。魔の山・ナンガパルバットに思いを馳せつつ、記念撮影をしてこの地を離れる。 約10分でジャグロットに到着する。仮橋は予定より早く完成し、通行可能になっていたが、橋の前後で大渋滞している。暫く車中で待っていたが、遅々として進まない。そこでHさんが降りて確認に行くと、交通整理をすべき警官が役目を果たしていないことが判かる。結局、彼と運転手が個別に交渉して、この難局を切り抜ける。それでも、ここを通過するのに、約1時間を要する。正午前、第二のナンガパルバット・ビューポイントに到着する。往路も立ち寄った場所である。やや雲が多くなったが、ナンガパルバットは、惜しげもなく雄姿を見せている。 ここから2時間で、往路図らずも宿泊したチラスを通過する。町の外れには、有名な"チラスの岩絵"が点在する。"地球の歩き方"によると、先史時代から10世紀にかけて描かれたとあるが、訪れてみると、何とその上に"SSP"と白ペンキで落書がされている。宗教上の違いによるのか、理由は不明だが、何とも痛々しい。次に、昼食を挟んで、シャティアールの岩絵を見学する。こちらは、4~8世紀にかけて仏教徒が描いた物だそうだが、落書もなく保存状態も良好である。観音像以外に、古代カロシティー文字で、何かが記されている。その後、KKHを南下し、夜8時過ぎ本日の宿泊地ぺシャムに到着する。 今夜は安眠できるかと思いきや、このあと変乗員N氏との大トラブルが発生する。夕食時に、翌日のスケジュールを発表する中で、何と5時モーニングコール,6時半出発を要求する。当初の予定より1時間半も早い。皆が黙っているので、私が悪者になるつもりで、連日のハードスケジュールで、疲労が極限に達している中、敢えて2日連続で1時間以上も出発を早める理由を問い質す。すると、それには答えず、スケジュールはあくまでもスケジュールで、変更しても構わないと嘯く。前回同様、全く答えになっていない。余りにも態度が悪いので、連日の何時間にも渡る居眠りを糾弾すると、謝るどころか、少しはしたかもしれないとまるで他人事のようで、反省の色も見せない。挙句の果て、時間を早めたままで出発すると、私の申し入れを拒否したので、私も思わず彼に詰め寄り、その不遜な態度を糾弾せざるを得なくなる。たが、彼は謝るどころか、顔を引きつらせたままである。以前、彼自身から聞いた話だが、永年就職することもなく世界を放浪し、一昨年にやっとS旅行社に拾ってもらったとか。自分勝手な一人旅は得意だろうが、コミュニケーションすらまともに取れない人間が、他人の面倒などみられる訳がない。結局、Yさんが、中を取って30分遅れの出発を提案するが私は拒否、翌日の観光をキャンセルし、単独でイスラマバード空港に向かうことにする。それだけ、ストレスと疲労が極限にまで達し、体が休息を求めていたと言うのが実態である。 |