*** 2011年9月10日 鎌倉・川端康成ゆかりの地 ***

1.モミジアオイ
(長谷)
2.旧川端康成邸1 3.旧川端康成邸2 4.川端邸内の
クロマツ
5.川端邸の庭 6.庭内のイチイ
7.鎌倉文学館への路 8.鎌倉文学館玄関前 9.鎌倉文学館前の
裸婦像
10.鎌倉文学館1 11.鎌倉文学館2 12.木漏れ日1
(鎌倉文学館)
13.木漏れ日2
(鎌倉文学館)
14.白い花
(ノシラン)
(鎌倉文学館)
15.鎌倉大仏1
(高徳院)
16.鎌倉大仏2
(高徳院)
17.鎌倉大仏3
(高徳院)
18.鎌倉大仏4
(高徳院)
19.長谷寺入口 20.蝶
(ツマグロヒョウモン
メス)  (長谷寺)
21.由比ガ浜
(長谷寺)
22.長谷観音1 23.長谷観音2 24.白萩1
(長谷寺)
25.白萩2
(長谷寺)
26.赤萩
(長谷寺)
27.和み地蔵1
(長谷寺)
28.和み地蔵2
(長谷寺)
29.逗子マリーナ方面
(鎌倉海浜公園)
30.江の島
(稲村ケ崎)

 9月10日(土)、台風12号も去り、久々の好天に恵まれたので、カメラをぶら下げて、鎌倉の川端康成(以下康成)ゆかりの地を訪問する。川端康成は、学生時代にその著書の殆どを読破した作家の一人だが、晩年の作"眠れる美女"の異常ぶりが脳裏にこびりついており、かねてから彼の出自を含めて、生き様を探究してみたいと思っていたところである。康成は、1968年のノーベル賞受賞の約4年半後、仕事場としていた逗子マリーナ417号室で、壮絶なガス自殺を遂げたが、その5年後に、この事件を小説風に描いた臼井吉見著"事故のてんまつ"が出版される。所が、その内容を巡って、遺族が訴訟を起こす一方、某団体から糾弾され、約3カ月後には絶版になってしまう。更に、その半年後には、"事故のてんまつ"に対する反証とも言うべき、三枝康高著"川端康成・隠されて真実"が出版され、"事故のてんまつ"は、完全に闇に葬られてしまう。ただ、Amazonでチェックしたところ、両書の取り寄せが可能なので、それらを元に、私なりにの評価を試みることにする。
所で、臼井吉見氏と言えば、安曇野が生んだ高名な評論家・作家であり、"事故のてんまつ"では、嘗て康成邸で短期間働いていたお手伝い・縫子(仮名)の口から、康成のひととなりや自殺に至る経緯等を語らせている。一方三枝氏は、康成とは知己の関係にある学者であり、研究者らしく、より深く康成の生き様を追及しているものの、前段で"事故のてんまつ"を全否定する等、康成に対して好意的な見解を述べている。以下、今回訪問した先々での、私の印象を述べることにする。
 12時過、JR鎌倉駅西口を出て、311号線を長谷に向けて歩きはじめる。9月中頃だと言うのに、気温は30℃を優に越し、玉の汗が滴り落ちてくる。途中、道端の真っ赤な"モミジアオイ"が、疲れを癒してくれる。暫く歩むと、鎌倉文学館入口の標識が現れる。この次の辻を右折し、突き当たりの神社に向かって進むと、その手前左手に旧川端邸が現れる。門柱には未だに川端の表札がかかっており、現在も親族が住んでおられるようである。左側には、"川端康成記念会"なる立派な看板もあるが、施錠された門扉の先は埃で覆われ、見学者も無い模様である。そこで、近くの方に伺ったところ、"予約のない人には、見せてやらない!”と嘯く。
どうやら、厚かましい観光客に見られたようであるが、一見の客はお断りとあっては、改めて出直すしかあるまい。
 ここから、"鎌倉文学館"に向かう。HPによれば、この施設は、旧前田侯爵家の鎌倉別邸を鎌倉市が譲りうけたもので、1985年にオープンしたとか。館内には、鎌倉在住の数多の文豪の資料が集められており、さしずめノーベル賞作家の康成は、その代表格であろう。だが、康成自身、日本ペンクラブ会長他の要職を務めたにも拘わらず、多くの文人が談笑する写真の中に、彼の姿が見られないのは寂しい限りである。一方、二階の部屋には、"山の音"の生原稿が展示されており、升目いっぱいに、しっかりとした字で書かれている。それに対し、三島由紀夫(以下三島)の"春の雪"は、女性っぽい小さな字で、升目に収まっている。字は性格を表わすというが、正に外見とは正反対であり、私にとっても面白い発見である。三島は、1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地(当時)に立てこもり、45歳で壮絶な割腹自殺を遂げたが、その翌年に催された告別式では、康成が葬儀委員長を務めている。更に、その一年後に、前述の通り、康成がガス自殺を遂げる訳である。康成と三島は、師弟以上の関係にあったと言われており、三島事件が康成の自殺に少なからず影響を与えたのは、間違いなかろう。一方、"事故のてんまつ"では、当初縫子と心中を企んだが、彼女に振られたため、それを悲観して単独で決行したとある。この辺りの記述他が、故人の尊厳を傷つけたとして、訴訟の対象になったようである。一方三枝氏は、"事故のてんまつ"に記された康成の出自を巡って、川端家の実際の戸籍謄本や写真をもとに反論しており、この点は実に説得性がある。最後に、夫人・秀子さんの"川端康成とともに"を紹介する。この本は、更に遅れて1987年に出版されているが、本文中で、康成やその親族を紹介する際に、所々で敬語を使っているのが、少々気になる点である。これは、社員が自分の上司のことを、他社の人間に話す際に敬語を使うのと同じことであり、明らかに間違った使い方である。だが、夫人の生き様に関しては、本筋から外れるので、これ以上詮索しないことにする。
 少々重苦しい雰囲気になってきたので、話題を変える。康成の生原稿の隣には、"深田久弥(以下久弥)"の資料が展示してある。彼の場合、作家というよりは登山家兼随筆家とでも言うべきで、文豪・康成の隣に置くのは、少々場違いのような気がする。だが、"Wikipedia"によると、久弥は若かりし頃、小説家をこころざした際、こともあろうに、自分の愛人の作を自作と偽り、小説を発表したとか。これを、康成や小林秀雄にとがめられ、以降自作の小説を発表したものの、全く不評を買ったようである。学者の世界でも、偶に同様の事件が起きるが、正に言語道断である。ただ、小林秀雄の勧めで、"山の作家"に転身して以降、"日本百名山"で名を残す存在になった訳である。だが、展示室では康成の隣に置かれ、未だに監視付と言うところか。これも、不思議な巡り合わせである。
 鎌倉文学館からの帰路、旧川端康成邸を再訪する。目的は、縫子の安曇野の実家・庭繁から移植したと言われる植木の確認である。先ず"クロマツ"の大木だが、これは確かに門の左手に存在する。だが、これだけでは、安曇野産とは特定できない。諦めかけていたところ、塀の先に庭が垣間見えたので、背伸びをして、適当にオートで撮影する。帰宅後改めて画像を開いたところ、庭の隅の玄関脇に、一本だけ"イチイ"らしき木が写っている。これを拡大してみると、モミの葉状の細かな切れ込みが確認できる。ところで、"イチイ(学名Taxus cuspidata)"は、嘗てウイーン・シェーンブルン宮殿(2002年10月4日参照)にて写真に収めたが、特に赤地に黒目のような果実が印象的であった。今回は、この果実まで確認できなかったが、葉の形と場所(本文には玄関の右先とある)からして、先ず安曇野から移設した"イチイ"に間違いなかろう。してみると、にわかに、"事故のてんまつ"が現実味をおびてくる。臼井吉見氏も、あとがきで、以下のように強く主張しておられるので、抜粋して紹介する。「この作品を『展望』77年5月号に発表した直後から、週刊誌を中心に、大きな反響があった。それらの中には、作者の意図に沿わぬものがあり、ために、多くの誤解を生じたのは残念でならない。・・・中略。無論、作者の創った小説であって、ともすれば、不審を誘った。それらの否定面も、作品化することによって、いくらかでも昇華し得たと信ずる。言わせてもらえれば、僕なりに追及した、川端康成の詩と事実にほかならない。その程度の自負がなくて、この作品を発表できるはずもない。以下省略。」。
 私個人としては、"事故のてんまつ"は、途中で長々と石川啄木論を展開する等、ストーリーの一貫性に欠け、小説としては今一つの出来だと思う。だが、こと康成論に関しては、三枝氏との共通点も多く、形を変えれば、研究論文にも相当する出色の内容と考えられる。ただ、惜しむらくは、康成の出自に関しては、三枝氏の多岐にわたる証拠から判断して、三枝氏に軍配を上げざるを得ない。最後に、康成自らが記した"湯ヶ島の思ひで"の一節を紹介する。これは、"伊豆の踊子"を発表する二年前のエッセイであるが、自身を飾ることなく赤裸々に語っている。「私が二十歳の時、旅芸人と五、六日の旅をして、純情になり、別れて涙を流したのも、あながち踊子に対する感傷ばかりではなかった。幼少から、世間並みでなく、不幸に不自然に育って来た私は、そのためにかたくななゆがんだ人間になって、いじけた心を小さな殻に閉じ籠らせていると信じ、それを苦に病んでいた。人の好意を、こんな人間の私に対してもと、一入ありがたく感じてきた。」。
以降、康成自身が、社会的弱者に対しても、温かい視線で接するきっかけとなったのではなかろうか。三枝氏によると、康成が若かりし頃、恋心を抱いた三人の
女性(踊子を含む)の本名が、何れも"ちよ"であったとか。これも何かの不思議な因縁であろう。実は、名前は違うが、私の若かりし頃にも、似たような体験をした覚えがある。ここから、鎌倉大仏,長谷寺を経て、江の島に向かう。途中、相模の海を挟んで、康成終焉の地・逗子マリーナが霞んで見える。

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