*** 2012年5月12日,13日 兵庫県加西市北条町 ***
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5月12(土)/13日(日)の両日、義兄の一周忌に参列するため、空路で羽田から神戸に向かう。久々に第二ターミナル展望台に上ると、遥か遠くに東京スカイツリーが霞んで見える。駐機場には、最新鋭のボーイング787が翼を休めている。やはり人気の機種とあってか、"飛行機おたく"と思しき若者が、望遠でしきりにこの雄姿を狙っている。所で、787は当初の予定より3年以上遅れて、昨年11月にやっと一号機が就航した訳だが、この辺りが国際プロジェクトのマネッジメントの難しさというところか。だが、本日の神戸線は残念ながら、旧型の737機である。 5月13日(日)、法事が始まる前に、加西市の名所旧跡を訪問する。先ず、中心部にある"羅漢寺"にタクシーで向かう。学生時代に、撮影のために何度か訪れたことがあるが、今では整備され、"カメラ女子"の人気スポットに様変わりしている模様である。所で、この制作者については、顔のほりの深さから、渡来人説もあるが、単にこちらの方が目を刻むより簡単であり、彫り師としては素人の信者が羅漢像を制作し、寺に奉納したと考えるのが自然であろう。現実に、高知工科大学在職時に、四国"御在所山"でも、同様の石仏を何体も見掛けたが、光背には年代と共に作者の名前まで刻印されていたと記憶している。一方パンフレットには、慶長15年(1610年)と記された羅漢が数体あるとか。即ち、数百年に渡って奉納された羅漢像が、積り積って500体弱にもなったということであり、古来この地で産出する柔かい凝灰岩(火山灰が固まったもの)が、素材として用いられたようである。何れにしても、その素朴な姿に、多くの人が魅せられるのであろうが、前述の通り、その由来/目的については諸説あり、判然としない。この辺りもミステリーを呼び、人気を倍加させる結果になるのであろう。余計な考え事をして、余りタクシーの運転手さんを待たせては悪いので、早々に撮影を切り上げ車に戻る。 次に、町の中心部から約8km離れた山寺"久学寺(きゅうがくじ)"を目指す。このきっかけとなったのは、昨晩甥のY君から、偶然この寺が赤穂浪士所縁の寺と聞いたからである。所で、赤穂所縁の寺と言えば、本年2月に、茨城県桜川市の"伝正寺"を訪れたばかりだか、図らずも立て続けに所縁の寺を訪問するのも、何かのご縁であろう。新緑がまぶしい山道を20分程走ると、立派な門構えの"久学寺"が現れる。別途、この寺をネット上で検索すると、「河上山・久学寺は、浅野藩三がく寺(赤穂の"花岳寺",東京の"泉岳寺")の一つとして、赤穂藩歴代の城主と浪士の位牌がまつられています。・・・」とあり、中々の名刹のようである。だが、本殿は改装中で、全体が半透明のビニールシートで覆われている。仕方がないので、境内の風景写真を撮って戻りかけたところ、これから外出される御住職と鉢合わせをする。そこで、赤穂浪士の墓所を聞いたところ、位牌が祀ってあるだけとか。だが話をする中で、御住職が東京の大学で学ばれていた際に、茨城県笠間市(浅野家が赤穂に移封になる前の領地)ご出身の現在の奥様と会われ、この方から"伝正寺"のことも聞かれていたとか。私も、今年2月に友人の案内で、"伝正寺"を訪問したことや、不破数右衛門にゆかりのあるものと話したところ、目を丸くして吃驚していらっしゃる。この間、僅か10分程の立ち話であったが、実に不思議な安らぎを覚えるひと時であった。更に、7月に大山さんと笠間市を訪問する計画があることも考え合わせると、正に神が仕組んだ"巡り合わせ"のように思えてならない。 一方、加西は、大石内蔵助に次ぐ1000石の高碌を得ていた組頭・奥野将監が、後年身を寄せた地でもあるが、彼は最終的に脱盟した関係で、卑怯者の汚名を着せられ、不遇の生涯を送ったようである。運転手さんに伺ってみても、"奥野将監"の名前は聞いたことはあるが、実際に彼の住居跡に客を案内したことはないとか。 そこで、改めてネット上の地図で、彼が頼った"磯崎神社"を表示してみると、何と"羅漢寺"と"久学寺"の略中間点に位置することが分かる。これも、何とも不思議な一致である。 所で、当時の赤穂藩の家臣は約500名とも言われ、禄高5万3000石の割に、多くの家臣を抱えていたことになる。これには、塩田からの副収入が、少なからず貢献したのは間違いなかろう。だが、実際に討ち入りに参加したのはその1/10であり、その殆どが離反/脱盟したことになる。武士道華やかなりし時代にあっても、やはり"義"を貫くのは大変であり、江戸末期に盛岡藩士の家系に生まれた国際人・新渡戸稲造が、名著"武士道"(原書は英文)で、赤穂浪士を評価する所以であろう。 御参考までに、山本博文訳のその一節を紹介する。「我が国の大衆教育で、しばしば素材として利用されている四十七人の忠臣は、俗に"四十七義士"として知られている。ずるい策略が戦術として通用し、露骨な偽りが戦略として通用していた時代にあって、率直で素直な、この男らしい徳は、最上の光り輝く宝石であり、最大級の賛辞を受けたのであった。・・・」。自己中心的な人間が増える現在、改めてこの"武士道"を通じて、日本人の良識を再認識すべきときであろう。 |