*** 2012年9月12日 東鎌倉 報国寺/杉本寺 ***
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1.報国寺山門 | 2.境内の庭園 | 3.大理石の観音像 | 4.地蔵像1 | 5.地蔵像2 | 6.本堂 | 7.元弘の変を弔う 五輪塔群1 |
8.元弘の変を弔う 五輪塔群2 |
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9.萱葺の鐘楼1 | 10.萱葺の鐘楼2 | 11.竹林の六地蔵 | 12.竹林1 | 13.竹林2 | 14.竹林の茶室 | 15.竹林3 | 16.竹林4 |
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17.竹林の仏像1 | 18.竹林の仏像2 | 19.足利一族の墓所 | 20.足利家時or義久の 墓所 |
21.庭園と裏山 | 22.フヨウと ノウゼンカズラ |
23.ハゲイトウ | 24.モミジ |
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25.杉本寺入口 | 26.山門への石段1 | 27.運慶作仁王像1 (向かって右側) |
28.運慶作仁王像2 (向かって左側) |
29.運慶作仁王像3 (向かって左側) |
30.フヨウ1 | 31.山門からの 下りの石段 |
32.大蔵弁財天1 |
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33.ハギ1 | 34.ハギ2 | 35.苔の石段(登り) | 36.萱葺の本堂1 | 37.萱葺の本堂2 | 38.萱葺の本堂3 | 39.杉本城の戦を弔う 五輪塔群1 |
40.杉本城の戦を弔う 五輪塔群2 |
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41.八地蔵 | 42.露座の地蔵像 | 43.フヨウ2 | 44.フヨウ3 | 45.玉珊瑚 | 46.釈迦堂切通し1 | 47.釈迦堂切通し2 | 48.釈迦堂切通し3 |
9月12日(水)、未だに猛暑日が続く中、思い切って東鎌倉の古刹探訪に出かける。また、体調が良ければ、"杉本寺"から始まる"衣張山ハイキングコース"にも初挑戦する予定である。なお、このルートは、登山家の岩崎元郎氏が、嘗て文藝春秋誌の"悠々山歩き"の欄で、富士山が望める絶景コースと紹介されていたので、一応それに供えて、望遠レンズとエクステンダーも持参することにする。 12:21、"報国寺"に到着する。私自身、当寺を訪問するのは初めてだが、由来記によれば、鎌倉末期の1334年に、足利尊氏の祖父・家時が開基したとか。所で、足利尊氏は、1336年に京都室町にて開幕したが、三男・基氏を鎌倉府公方(くぼう)として派遣し、以降この要職を足利氏が世襲し、"報国寺"が一族の菩提寺となる。山門をくぐると、左手に美しい庭園が現れ、その隅には、大理石製と思しき観音像が確認できる。参道右手には、艶やかな頭巾と涎かけを付けた地蔵が立っており、その写真を撮りつつ奥へと進む。本堂前の石段下まで来ると、その左側に、中央の五輪塔を取り囲むように、数十体もの小さな五輪塔が並んでいる。その一角には、追悼歌と共に由来が刻まれた石碑が置かれている。それには、「元弘3年(1333年)5月、北条一族と新田勢が合戦(元弘の変)の折、両軍戦死者の遺骨を、由比が浜よりこの地に改葬す。昭和40年秋・・・」と記されている。してみると、五輪塔群が、中央の大将を取り囲む忠臣のようにも見えてくる。所で、新田軍は、その後内陸に向かい、北条高時他800余名が籠もる"東勝寺"を陥落させている。この際、北条高時他全員が自刀し、同年5月22日鎌倉幕府は終焉を迎えることになる。暫し感慨に耽ったあと、萱葺の鐘楼脇を抜けて、竹林に向かう。 別名"竹の寺"と言われるだけあって、見事な竹林が広がっている。何でも、創建当時に京都より移植した孟宗竹が、ここまで立派な竹林に育ったとか。ここを抜けると、北側の断崖に、三つの洞窟が確認できる。その中には、大小の五輪塔が並んでおり、中央の最大のそれが、開基・家時とも義久(鎌倉公方家4代・足利持氏の嫡男)とも言われているが定かでない。当寺のHPによると、永享の乱(1438~1439年)にて、持氏/義久親子共々、相前後して、それぞれ永安寺/報国寺で自害している。つまり、当寺が関東足利家終焉の地ということになる。なお、両寺間の直線距離は、東勝寺‐報国寺間と同じ800m、つまり、"報国寺"が二等辺三角形の頂点に当たることになる。現在では、頂点の報国寺のみ残存しているのも、何かの因縁であろうか。ここから、鎌倉最古の寺・"杉本寺"を目指す。 13:03、"杉本寺"の門前に到着する。見上げると、石段が延々と続いている。うだるような暑さの中、ゆっくりと登り始めるが、石段は摩耗が進み、何とも歩きにくい。 汗を拭き拭き、中間点の山門まで辿り着くと、その両側に、二体の仁王像が立っている。ファインダーを通して見ても、実に迫力満点なので、改めて先程入口で貰った略縁起を見ると、何と"運慶"作と記されている。成程、名工・運慶の作とあっては、素人目にも、その違いが分かるようである。一方、山門先には、小さな神社の祠があり、その入口には、真っ赤な"大蔵弁財天"の幟がはためいている。これは、神仏習合の名残であろうか。最後の石段は、更に摩耗が進み、流石に通行禁止となっている。そこを回り込むように登ると、萱葺の本殿が現れる。建物自体は高床式で、本殿というよりは社殿に近い形をしている。その右手には、大きな五輪塔を取り囲むように、100体以上もの小さな五輪塔が整然と並んでいる。このすぐ傍には、"八地蔵"もあり、付近一帯が"霊場"と化している模様である。WEB情報によると、五輪塔群は、建武4年(1337年)の"杉本城の戦"により、北畠顕家《南朝側》により滅ぼされた、斯波(しば)家長《足利側》以下300名の供養塔とか。この戦いでは、斯波軍は、3日間持ちこたえたものの、最期は全員自決している。何れにしても、前述の東勝寺/報国寺/永安寺同様、当時の寺院は、戦時は要害化する施設であり、中でも、"杉本寺"が一番難攻不落なそれであったのであろう。これは、足利尊氏が公家側を抑え込むため、1336年に京都に室町幕府を設置したものの、嘗ての勢力圏であった東国が却って手薄になり、開幕一年後も依然として、平定されていなかったことを表わしている。結局、一定の決着をみるのは、1338年に北畠顕家/新田義貞/楠正成が相次いで戦死し、後醍醐天皇が病死する1339年以降となる。これは、鎌倉時代の作と言われる"平家物語"を、平家以外に当てはめても峨点が行く。即ち、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。」であるが、戦国時代にこそ当て嵌まる、蓋し名言である。更に、「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう),漢の王莽(わうまう),梁の しうい,唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にも従わず、楽しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして民間の愁(うれ)ふるところを知らざつしかば、久しからずして亡(ぼう)じにし者どもなり。」と、滅びし異国の"まつりごと"についても言及している。グローバル化の進む現在、"民間"を"他国"に置き換えれば、現在の"品格なき異国"にも通じる、蓋し格言である。 13:30、少々頭が上せたので、結局"衣張山"登頂は諦め、代わりに"釈迦堂切通し"に向かう。住宅街の路地を6分程歩むと、舗装路が途切れ、ここから山道が始まる。周辺では、猫三匹が長閑に昼寝をしている。その先には、"通行禁止"の看板が立て掛けられているが、折角ここまで来たので、自己責任で、行けるところまで行くことにする。 13:39、"釈迦堂切通し"前に到着する。だが、この先には、高さ2m程度のフェンスで遮られており、正に此れまである。それでも、金網の間から、迫力満点の"切通し"が撮影できたので、これで十分満足である。ここから報国寺の駐車場へと戻る。 帰路、"岐(わか)れ路"交差点前の"ビゴの店"に立ち寄る。同店は、フランス人/フィリップ・ビゴ氏が経営するパン工房兼レストランで、鷺沼店に続き昨年夏開店したとか。本店は芦屋市にあり、私も帰省のたびに利用しているが、各種フランスパン/ライ麦パン/大納言等、特にハード系が美味である。私自身、嘗てEU圏の国々で、色々なパンを食したが、"ビゴのパン"は本場をも上回る味と断言できる。これは、単にフランス食文化のコピーではなく、日本人の微妙な味覚により、更にリファインされた結果である。何れにしても、比較的近場に、"ビゴの店"が開店したのは嬉しい限りである。何か得をしたような気分で、家路を急ぐ。 総歩数:4760歩 |