*** 2012年2月4日 真壁町(茨城県桜川市) ***
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2月4日(土)、昨日の登山の疲れからか、思いの外熟睡でき、今朝は爽やかな目覚めである。宿泊したホテル一望302号室からも、富士山や東京スカイツリーが遠望できる。この光景の撮影は後回しにして、先ず三人で朝ぶろとしゃれ込む。昨晩は平日でもあり、宿泊客も少なかったと見えて、ホテルの内風呂は我々の貸切状態である。入浴後は、それなりの味の朝食をゆっくりと摂ったあと、部屋に戻りおもむろに絶景撮影に取りかかる。富士山自体は光線の具合か、先程よりもクリアに見えるが、画面中央に、灰色のスモッグが帯のように広がっている。首都圏の人々は、私も含めて、このような環境下で暮らしているわけだが、中国・ハルピン(2003年12月20日参照)よりは、まだましのように思える。 9:00、チェックアウトを済ませ、裏道を抜けて筑波山神社に向かう。思いの外立派な神社で、境内も広く、その一角には樹齢800年といわれる大杉も植わっている。また、入口には、徳川三代将軍・家光が寄進した"御船橋"があり、神社のWEBには葵の御紋まで描かれている。圧巻は拝殿の"大鈴"で、余りもの大きさに見とれて、思わずシャッターを切ったが、人の頭の7~8倍はあろうか。石段手前には、日本国歌"君が代"の石碑と、その中に詠まれている"さざれ石"が置かれている。所で、その国歌斉唱を巡って、賛否両論があるが、1999年に国歌と決められた以上、式典の場でこれを拒否するのは、"無国籍人間"と言わざるを得ない。米国など、ありとあらゆる機会を捉えて国歌斉唱を行っているが、これは軍国主義でもなんでもなく、多民族国家米国の国民としての自覚を促すためである。では日本に、なぜこのような"無国籍人間"が生じたかだが、根底にあるのは、藤原正彦先生の仰るGHQ(戦後処理を行った米国中心の総司令部)の『罪意識扶植計画』ではなかろうか。GHQは戦後、徹底した言論統制と、日教組を通して懺悔教育を強制することにより、"君が代"を斉唱することで、一種の罪悪感を抱かせるように仕向けられた結果であろう。だが、"無国籍人間"が、このような背景も知らずに、個人の自由云々と言っているのは、単なる利己的発言に過ぎないと考えられる。昨日の、拝殿前の中高年の飲食もそうであるが、公の場でモラルを守れない人間が、確実に増えている。これも、戦後欧米からもたらされた個人主義の悪影響であろうが、個人主義は本来、他人の人格をも尊重することで成り立つはずである。伝統文化豊かなウイーンの街中では、行きかう人はお互いに相手に道を譲ろうとするが、日本の大都会の駅構内では、我先にと駆け抜け、ぶつかっても知らん顔である。これは、意外と若い女性に多い。要するに、個人主義を履き違えた利己主義/排他主義である。少々重苦しく雰囲気になってきたので、話題を変える。 11:00、一度ホテルの駐車場まで戻り、真壁町の"ひな祭り"見学に向かう。真壁町は、筑波山の北側に位置し、嘗て真壁藩の居城があっただけあって、豊かな歴史/文化が残こされている。この"真壁のひな祭り"もその一つで、江戸時代の貴重な雛人形も、展示されているとか。また、文化遺産としては、"真壁城址"が挙げられるが、こちらは後回しにして、ひとまずひな祭り会場に向かう。本日は初日にも拘わらず、意外と観光客は少なく、ひっそりとしている。ただ、街中を歩いていると、東日本大震災で被災した豪邸が目立つ。特に、豪壮な門や土蔵が、甚大な被害を受けており、何とも痛々しい。また、ひたちなか市の大山邸も、大谷石の塀が全壊したとか。そんな話をしつつ会場に向かっていると、大山姓の表札が二軒程目に留まる。大山さんによれば、大山氏は真壁氏にゆかりがあるとか。だが、真壁氏は、関ヶ原の合戦で西方に付いたことにより、1602年に領主"佐竹義宣"と共に、秋田に移封になってしまう。してみると、一族郎党が全て秋田に移ったのではなく、一部がこの地に残ったことになる。考えてみれば当たり前で、反徳川であった佐竹氏は、減封された上で秋田に国替となったので、当然以前の家臣全部は雇えない訳である。 従って、減封の石高に応じた家臣が地元に残り、新たな藩主である浅野氏に仕えるか、下野したのであろう。そんな余計なことを考ながら歩いていると、手打ちそばの露店が目に留まる。相談の結果、昼食には一寸早いが、試食してみることにする。暫くすると、温かい蕎麦が運ばれてくる。聞けば二八蕎麦とか。早速食してみるが、その割にこしも香りも今一つである。これなら、約二年前に、大山さんと食した"西金砂(ニシカナサ)"十割蕎麦の方が、何倍も美味である。腹ごしらえが出来たところで、ひな祭り会場に向かう。会場と言っても、自宅を解放して、玄関の奥の間に雛段を展示している訳であるが、靴を脱ぐことなく見学できて、却って好都合である。陶器店に入ると、何と人間国宝の"玉貞"作なる逸品も展示されている。だが、別途WEB上で調べた限りでは、残念ながら、"玉貞"なる名工は特定できない。 次に、古式豊かな民家を訪問する。ここには、江戸時代から昭和初期にかけての、歴代の雛人形が陳列されている。ふと、左端に目を移すと、大きな干瓢の容器に、我が家紋と同じ"左三つ巴"が描いてある。ひょっとして、酒井と関わりがあるのかと、説明係りの方に聞いてみたが、この家の者でないので、分からないとか。所で、酒井家は私で30代となるが、家系図からすると、鎌倉時代の有力御家人"波多野氏"から分かれたもので、1221年後鳥羽上皇が起した"承久の乱"の功績で、相模国から小京都と言われた丹波・油井に移ったことになっている。その際、故郷相模国・酒井庄を取って、酒井姓を名乗ったとある。一方、寛政年間に刊行された"丹波志"によれば、"承久の乱"以後に関して、『武蔵国大里久下保の久下氏が氷上郡栗作郷に、相模の住人酒井政親が多紀郡酒井庄に、それぞれ補任されたと記している。・・・』とある。私自身は、酒井政親が"承久の乱"に参戦し、功をなしたか否かまで確認していないが、当時朝廷から没収した荘園の一つである丹波に、"新補地頭"として送り込まれたのは確かであろう。改めて、WEB上で、巴の家紋を調べてみると、上総の酒井氏が"右三つ巴"、後述する忠臣蔵の大石氏が"左二つ巴"と、何やら関係がありそうな気がしてくるが、詮索はこの辺りで留め置きたい。なお、大山さんの親戚や、小林君の実家の家紋も"巴紋"とか、これも不思議なご縁である。 一寸道草したが、今度は石屋の雛人形を見学する。此方は、ごくシンプルに、昭和初期から平成まで、雌雛と雄雛を中心に展示している。小林君は、花崗岩製のスピーカーボックスも将来研究に加えるためか、名刺を交換している。写真を撮り終えて、店を出ようとしたところ、ガラスの陳列棚に2枚の石の表札を発見する。何気なく覗きこんだところ、何と2枚とも"高橋宏"と彫られている。"高橋宏"さんといえば、昨日"奇遇"でご紹介した、室蘭工大のD先生の大親友で、私とはいすゞ自動車同期入社の間柄である。しかも、新日鉄室蘭病院で、私の命を救って下さった主治医も、"高橋宏"先生である。偶然にしては出来過ぎており、これも、何か不思議な巡り合わせではなかろうか。その後、数か所で雛人形を見学したあと、"真壁伝承館"を訪問する。館内の年表には、歴代の藩主が年代順に列記されており、先程の"佐竹義宣"が秋田に移封後、1606年に"浅野長政"が新たな藩主となったことが分かる。浅野一族は、笠間藩主も含めて、北関東にて三代に渡って藩主を務め、1645年に三代長直が赤穂に移封になっている。更にその三代あとの浅野長矩(内匠頭)が、元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、殿中にて吉良上野介刃傷に至るわけである。 この事件から赤穂浪士討ち入りまでが、所謂"忠臣蔵"として広く知られているが、この討ち入りを指揮したのが筆頭家老"大石良雄(内蔵助)"である。この良雄の3代前の"大石良勝"が、笠間藩主浅野長重の永代家老に取り立てられ、以降大石家が代々浅野藩の家老職を務めることになる。従って、真壁町/笠間町が、夫々忠臣蔵の第一/第二のふるさとということになる。 駐車場まで戻り、その前に広がる"真壁城址"を探索する。残念ながら、本丸は体育館に様変わりしているが、広大な城址内には、何本もの濠跡が残り、全体を萱が覆っている。ふと芭蕉の一句"夏草や、兵どもの夢の跡"が思い浮かぶ。先程の"真壁伝承館"の資料によると、「1622年、浅野長重、真壁・笠間藩を領有し、笠間藩が成立(真壁藩廃藩)」とある。ただこれだけだと、別に廃城までしなくて良いと思われるが、この背景にあるのが、1615年"夏の陣"直後に秀忠が発した"一国一城令"であろう。これにより、幕府の監視をし易くすると共に、旧領地を天領として幕府に召し上げ、財政的にも徳川と戦えなくする狙いであったのであろう。一方、真壁藩が廃藩となった1622年、秀忠は、家康の重鎮・本多正信の子・正純を改易し、嘗てこの地域の領主で秋田に移封された"佐竹義宣"に預けている。嘗て権勢を誇った正純も、その15年後、この地で、寂しく生涯を終えている。これも、歴史の皮肉な巡り合わせであろう。 14:40、大山さんの案内で、浅野家の菩提寺である"伝正寺"を訪問する。所が、山門は東日本大震災で被災し、立入禁止となっている。仕方がないので、裏口から墓苑に入ろうとしたところ、その手前にも立入禁止の標識が立っている。それでも、折角ここまで来たのだからと、墓苑に向かい始めたところ、背後から呼び止められる。振り向くと、ここの住職と思しき方が、鬼の形相で"震災の復興中なので立入禁止です!"と仰る。そこで、浅野長矩(内匠頭)の家臣"不破数右衛門"に拘わりのある者で、何とかお許し頂けないかと懇願したところ、万一の場合は我々が責任を取ることを条件に、許可頂くことになる。なお、その拘わりであるが、"数右衛門"の実姉"くま"が、酒井家に嫁いでおり、姻戚関係にあったことである。また、数右衛門には子供がなかったことから、切腹後に、姉の元に討ち入りの際の"鎖帷子(くさりかたびら)"や切腹時の"裃"他の遺品が届けられ、それらが代々酒井家に伝わり、現在でも実家に保存されている。御住職は、仮事務所に戻られたので、我々で、"浅野廟"に向かう。西側の浅野家の家紋(丸に違い鷹の羽)が入った門は、堅く閉じられており、反対側の崩れかけた石段を伝って廟に入る。半開きになった西側のお堂には、初代藩主"浅野長政"の五輪塔が安置されている。もう一方のお堂は閉まったままだが、隙間から大山さんが覗いた限りでは、近年法事が行われたらしく、3本の卒塔婆が置かれているとか。東側には、広島浅野宗家13代当主浅野長勲(ながこと)夫妻の、石碑が立っている。また、側の石燈籠には、明治43年4月7日に、浅野長勲公爵が300年祭典を実施したとあり、今でも浅野宗家が、本寺の総代を務めておられる模様である。最後に、住職にお礼を言おうと、仮事務所に立ち寄ったが、奥からは全く応答がない。代わりに、小型の"猛犬"が、歯をむき出しにして、我々を迎えてくれる。今鎖が切れれば、正に噛り付かんとするくらい、獰猛な顔つきである。教育者の端くれとして、どんな飼い方をすると、愛玩犬がこんな猛犬に変貌するのか、気になるところである。ここから、元来た道を筑波大へと急ぐ。 今回は二日に渡って、大山さん/小林君と筑波山登山と、真壁町の歴史文化の探訪を楽しんだ。不思議な出会いや、面白い発見も多々あり、楽しい2日間となった。機会があれば、第二の忠臣蔵の故郷・笠間町も共に訪れてみたい。 |