*** 2013年2月22日 水戸 ***
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2013年2月22日(金)、昨晩は我々の貸し切り状態でゆっくり休めたせいか、今朝は爽やかな目覚めである。ただお二人は未だ熟睡中だったため、こっそりと寝床を抜け出し、朝風呂としゃれこむ。だが部屋を出たところ、バラを活けた水盤が完全に凍っている。やはり昨日の予報通り、-4℃程度まで下がったのであろう。身震いする中、早速湯船に向かうと、昨日のものと思しきバラ数十輪が漂っている。手に取ってみると、まだ生気を保っており、ほのかな香りも感じられる。笠間は温泉が出ないため、代わりにバラを浮かべて、アロマ効果を狙ったのであろうが、美的効果も相まって、脳の癒し(リラックス)に繋がるのではなかろうか。 8:40、割烹旅館"城山"のチェックアウトを済ませ、近くの"笠間稲荷神社"に向かう。当社は日本三大稲荷の一つで、年間350万人以上もの参拝者が訪れる人気のスポットとか。実際に大山さんも、ひたちなか市から、毎年初詣に訪れるとか。ただ、参道を拝殿に向かって進むと、根元で折れた鳥居の礎石が、そのまま放置されている。大山さんによると、周辺の山々で良質の花崗岩を産出することから、一の鳥居/二の鳥居共花崗岩製であり、それらが東日本大震災で倒壊した結果だとか。 拝殿で、母の病気治癒をお願いしたあと、水戸の"偕楽園"に向かう。 9:50、偕楽園近くの千波湖畔に駐車したあと、"偕楽園"の方向に歩きはじめる。湖面には多くの水鳥が浮かんでおり、ズームアップすると"オナガガモ"であることが判かる。暫くすると、植え込みの間から、"コクチョウ"のつがいが突然飛び出てくる。餌付けされているせいか、近寄っても逃げようとしない。次に、"コブハクチョウ"を数ショット撮ったところ、その一枚に、水藻を啄ばむ白鳥の周辺が、油膜の縞模様で覆われているのが確認できる。野鳥のオアシスを守るためにも、水質浄化が急務である。ここから、JR常磐線の陸橋を渡って、"偕楽園"に向かう。恒例の"水戸の梅まつり"は、昨日から開催されているが、南側の紅梅が部分的に開花しただけで、観光客もまばらである。従って、被写体に事欠く状態であったが、園内を散策していると、艶やかな振袖姿の"梅むすめ(梅大使)"に出くわす。カメラを構えると、笑顔でポーズを取って下さる。何か得をしたような気分で"好文亭"に向かう。所で、入口で貰ったパンフレットによれば、"弘文"とは梅の異名で、晋の武帝の「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば開かなかった。」という故事に由来するとか。蓋し名言であり、この考え方が、後に訪れる藩校"弘道潅"の教育にも繋がっているのであろう。亭内は多くの部屋で区切られ、夫々に見事な襖絵が描かれている。また、廊下の途中には"花頭窓"もあり、洒落た構成となっている。最上階の"楽寿楼"からは、庭園越しに千波湖が望める。当時斉昭も見た絶景というところか。ここから、"常盤神社","義烈館"を経て、オープンロケ地に向かう。ここは、映画"桜田門外ノ変"の襲撃シーンが撮影された場所で、雪の桜田門と周辺の武家屋敷が、略実物大で再現されている。大山さんによると、撮影後に取り壊わされる予定であったが、見学者が絶えないことから、そのまま展示館として残されたとか。桜田門のセット前まで来ると、周辺一帯はベージュ色の綿のようなもので覆われている。だが、デジカメ画像を再生してみると、それなりに雪らしく写っている。これは、目の錯覚を利用したのか、それとも撮影後3年以上たって、周辺の土と混じり合ってベージュ色に変色したのか、理由は定かでない。記念館には、映画のキャストの説明もあり、襲撃を指揮した"関鉄之助"役の大沢たかおが、何とも凛々しく見える。ただ、実際の"関鉄之助"は、事件後2年余りに渡って各地を逃亡したのち、最後は越後で捉えられ斬首となっている。襲撃に参加した他の17人の水戸浪士も、生き長らえた2名を除き、略同様の末路を辿っており、哀れと言う他はない。私自身は、このような暗殺を肯定するものではないが、彼等の思想背景となった"尊攘"が、結果的に欧米列強の植民地支配から日本を守ったとも考えられ、評価の分かれるところであろう。ただ、水戸浪士の行為が支持されなかった理由の一つに、当時の日本人に、暗殺のような卑怯な行為を蔑む心が存在したことが考えられる。その点で、赤穂浪士と水戸浪士では、一線を画するのであろう。また、赤穂浪士の中でも、大石内蔵助に次ぐ高碌を食みながら、途中で脱盟した奥野将監は、卑怯者と蔑まれ不遇の生涯を送ったことも、それを証明していると思われる(2012年5月12日参照)。そんな余計なことを考えつつ出口に向かっていると、"松の廊下"のオープンセットが目に留まる。時代からして、まさか、忠臣蔵関連の撮影用ではないと思うが、昨日の笠間市の訪問地と関連があるのも、奇妙な一致であろうか。ここから、昼食を挟んで、"尊穣"教育の中心となった藩校"弘道館"を目指す。 14;20、弘道館前に到着する。正門は以前のままだが、正庁(本館)は東日本大震災により甚大な被害を受け、館内は依然見学禁止のままである。よって、正庁周辺の庭園のみの散策となるため、料金は不徴収である。ただ園内に入ると、女性の方が近寄ってこられ、我々の時間の許す範囲内で、弘道館について説明頂けるとか。そこで一緒に正庁前に向かうと、全体が仕切板で囲まれ、漸く復旧工事がスタートしたばかりの状態である。従って、中の様子を窺い知ることができないが、隙間から覗いた限りでは、玄関の間にあった"尊穣"の衝立は無くなっている。一方、説明員の方によると、"関鉄之助"は、10石3人扶持の禄高で、食うにも困る状態だったとか。そんな中で、国を憂い、"尊穣"を貫いた姿勢は、事の善悪は別にして、尊敬に値する。機会が有れば、是非映画"桜田門外ノ変"を見てみたいものである。他にも、"左近桜"の謂れ他につても、熱心に解説して頂いた御蔭で、予定の時間を大幅にオーバーしてしまう。分かれ際に、お名前を伺ったところ、何と大山さん/私とメーカ同期で、水戸出身の故M君と同姓である。ひょっとして、御親戚ではと思い、彼についての更なる情報をお伝えしたが、そうではなさそうである。ただ、大山さんによると、水戸でも余りない名前とか。これも何かの不思議なご縁であろうか。ここから、水戸城址にある旧薬医門他を見学したあと、帰路につく。 今回は略1年ぶりに、大山さん/小林君と二日に渡って、笠間市と水戸市の歴史/文化探訪を楽しんだ。不思議な出会いや、面白い発見も多々あり、楽しい2日間となった。最後に、病み上がりの中、我々のために精力的に御案内頂いた大山さんに、改めて感謝申し上げたい。 総歩数:約10000歩 登りの厳しさ:無し |