*** 2016年11月7日 奥久慈の秋その1 ***
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紅葉の季節になったので、11月7日(月)/8日(火)の両日、"袋田の滝"で有名な奥久慈を、略6年半振りに大山さんと訪問する。毎年秋には、2000m級の山々に共にチャレンジしてきたが、年々私の体力の衰えが顕著になってきたので、初日は体力を温存し、二日目に"奥久慈男体山(標高654m)"に初挑戦することにする。ただ、この山は標高に似ず、実に堂々たる山容をしており、標高差約350mの断崖を直登する健脚者向けから尾根道を巡る一般コースまで、レベルに応じた選択が可能である。今回は、私に合わせて頂て、後者のルートを取ることにする。 従って、初日は奥久慈の自然/文化を探訪する旅と言うことになる。 7:00、自宅横浜を後にする。ナビに従い首都高速横羽線に入ると、早速生麦手前から朝の渋滞に巻き込まれる。更にその先の浅田まで、のろのろ運転が続き、羽田を通過した時点で、優に1時間は経過している。この分だと、首都圏を抜けるのに2時間以上もかかるかと思いきや、以降渋滞には会わず、正に想定外の早さで、待ち合わせ時間の約1時間前に到着する。早速大山さんに連絡を入れたところ、未だ御自宅とか。それでも、直ぐに駆けつけて下さったお蔭で、予定より30分早く奥久慈へと出発することになる。相談の結果、ここから国道118号線を北上し、先ず"袋田の滝"の北西に位置する"月待の滝"を訪問し、ここで名物の手打ちそばを賞味することにする。 11:41、"月待の滝"に到着する。手前の駐車場に車を停め、緩やかな坂道を下って行くと、木立の中に小滝が現れる。滝周辺の光景を撮っていると、親子連れが現れ、滝の裏側に入って行く。どうやら、滝の飛沫に晒されることなく、通れるようである。お世辞にも名瀑とは言えないが、この辺りが観光客を呼び込む目玉というところか。そうこうする内に昼時になったので、川端に建つ"月待の滝もみじ苑"にて、人気の手打ち蕎麦を堪能することにする。二階のオープンテラスの席から下を眺めると、成程名前の通り、多くの椛が見られるものの、残念ながら青葉のままである。また、肝心の十割蕎麦も、香/腰とも今一つで、しかも一部が干乾びており、どうやら作り置きしたもののようである。これなら、6年半程前に食した西金砂(ニシカナサ)の"そば工房(2010年3月9日~11日参照)"の方が、余程美味である。ここで、一時間程休憩したであろうか。体が冷えてきたので、そろそろ腰を上げ、次の目的地"八溝山(標高1022m;茨城県最高峰)"に向かうことにする。 13:29、"八溝山"山頂に到着する。早速、城のような展望台に登ると、360度の眺望が広がっており、ここが茨城の最高点であるのが実感できる。北方には那須連山が、その西方には懐かしき"谷川岳"が望める。南側に回ると、明日登る予定の"奥久慈男体山"の断崖が霞んで見える。この急峻度合いからして、やはり直登コースを選択しなくて正解であったようである。展望台を下り無人の八溝嶺神社に参拝したあと、南斜面を眺めると、"ブナ"や"ミズナラ"の黄葉が確認できる。丹沢では標高1300m程度にあるブナの生育帯も、奥久慈では標高1000m付近にまで降りてきているのが実感できる。ここから一旦山を下り、南下してモミジ寺"永源寺"に向かう。 14:36、"永源寺"に辿り着く。先程の"月待の滝"の紅葉は今一つであったので、里のモミジも青葉のままかと思いきや、高さ10m以上もありそうな大モミジが、真っ赤に色付いている。正に"モミジ寺"の面目躍如というところであるが、太陽は既に西に傾いている関係で、折角の赤色も彩度を失い、立体感も乏しくなっている。この分だと、谷間にある"袋田の滝"も絶景は期待薄なので、明日に先延ばしし、多くのドラマ/映画の舞台となった"旧上岡小学校"に向かう。また、"永源寺"も、明朝日差しがある時に、再訪することにする。 15:25、"旧上岡小学校(1879年創立⇒2001年閉校)"に到着する。校門からは、何処かノスタルジーを感じさせる木造校舎が眺められる。ネット情報によると、平日は校舎に入れないとのことであったが、近付いてみると何と玄関が開いている。どうやら、"茨城県北芸術祭"開催中は、平日も一般公開されているようである。早速教室に入ると、机や椅子は片付けられ、代わりに"芸術作品?"が置かれている。ただ、今回は懐かしき光景を収めるために訪れたので、なるべく"芸術作品?"を外して撮影する。渡り廊下の階段を登り、体育館に入ると、床面いっぱいに漆黒の液体が張られ、舞台正面には卵形の黒い物体まで置かれており、残念ながら"芸術作品?"の映り込みを避けるのは不可能である。校内の写真を撮り終え、運動場に出ると、その片隅に懐かしきジャングルジムと滑り台が目に留まる。ふと、来住小学校1年生の時に、この前で優しかったM.M先生と共に、クラス写真を撮ったのを思い出す。M.M先生には、1991年に再会が叶い、以降交流が続いたものの、その数年後に病没され、万感胸に迫る思いである。我が愚妻と名前が一致するのも、何かのご縁であろうか。ただ先祖の墓も都会に移し、故郷を訪れる機会も皆無となり、故郷の便りを聴くのは、同窓会に参加した時くらいである。更に、室生犀星の『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」が思い浮かぶ。ここから、本日の宿"思い出浪漫館"へと車を走らせる。 |