*** 2017年5月21日 柳田圀男の故郷北条町/福崎町 ***
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5月20(土)、義兄の七回忌に参列するため、加西市北条町に向かう。当市は、播州平野の中央部に位置し、嘗ての交易の要衝でもあった関係で、未だに豊かな歴史/文化が残っている。一方、先日関東地域でもテレビ放映していたが、隣町の福崎町では、15分おきに池から姿を現す"河童"が、子供達の人気を集めているとか。当町は、民俗学の開祖"柳田圀男(旧姓松岡)"の生誕地でもあり、著書・遠野物語で広く知られることになった河童が、町興しに利用された格好である。また、柳田圀男(以下圀男)は、約9年間福崎町で幼少期を過ごしたのち、一家で隣の北条町に引越しているので、法事が行われる同町が第二の故郷ということになる。河童は兎も角、私自身も郷土の偉人の生き様に興味があるので、法事終了後に生家を訪問することにする。 5月21(日),07:45、朝食を済ませ、"酒見寺"に向かう。約10分で同寺の楼門を潜ると、右手に重文"多宝塔"が現れる。この寺の謂れについては、前回訪問時(2013年5月26日参照)に記載しているので省略するが、何れも格調高い建築物であり、当時の栄華を窺い知ることができる。前回は、屋根下の極彩色模様に見惚れたが、組物他の複雑な支持構造物も何とも見事である。ネット情報によると、江戸時代寛文2年(1662年)の建立で、直近では昭和51年(1976年)から2年がかりで解体修理されたとか。姫路城ではないが、昭和の大修理というところか。参道を進むと、色鮮やかな"鐘楼"が現れ、その奥には、武家屋敷のような"酒見寺本坊"が控えている。豪壮な総門を潜ると、丹精込めた庭が広がり、その脇に真っ赤なシャクナゲが開花している。塀際の灯篭には、葵御紋が付されており、徳川幕府の帰依があったことを窺い知ることができる。 08:05、5分で撮影を切り上げ、"住吉神社"に向かう。神社手前の石橋からは、風格のある拝殿が望め、背後の三社殿(東社殿,中社殿,西社殿)と相まって、荘厳さを倍加させているように見える。拝殿を見上げると、見事な龍の彫刻や"楠公訣子図絵馬"も確認できる。この絵馬で、首を垂れる人物は、一見すると女性に見えなくもないが、ネット情報によると、楠木正成の子正行とか。拝殿を出て社殿裏側に回ると、先程の三社殿が眺められる。建物自体には、目立った損傷は確認できないが、地面には雑草が生い茂り、手入れが行き届いていないのが分かる。ここから、脇道を通って"羅漢寺"を目指す。 08:27、羅漢寺に到着する。学生時代から、石仏撮影のため何度か訪れた場所であり、謂わば私の原点とも言えるが、来る度に新しい発見がある不思議な場所である。加西観光Naviには、『いつだれがなんのために作ったかもわからない五百羅漢。それに答えうる史実も、資料も、確かな言い伝えも、何一つとして存在していないのです。石彫の手法としては、きわめて拙く、それゆえに、素朴さを愛し、何か郷愁めいたあこがれをさえもって、人々はその真実を探ろうとするのですが、訴えるような眸を見せて、この石仏たちは、黙々として何事をも語ろうとはしません。この石仏の謎は、あるいは永遠の謎であるのかもしれません。しかし、それでよいのだとも思います。・・・』とある。実に言い得て妙であるが、私にとっても、最後の訪問になりそうなので、今回は特に心を込めて羅漢像を撮影することにする。ここから一度ホテルに戻ってから、七回忌法要に向かう。帰路、住吉神社の鳥居をくぐると、石垣に沿って、"2017年住吉神社創建1300年"なる横断幕が掲げられている。 13:20、法事終了後、帰り支度をして、タクシーで北条町から福崎町に向かう。県道23号線を西にひた走ると、数分で寂し気な溜池地帯を通過するが、何故か強く印象に残る。約15分で、"辻川山公園"に到着すると、緩やかな坂道が、小さな池へと続いている。その石橋の上には家族連れが群がっており、これが、テレビで放映された"河童池"のようである。私もその上で暫く待っていると、池の中から3匹の河童(カワジロウ&コガッパ)が現れ、10秒ほどで隠れてしまう。子供騙しと言えばそれまでだが、中々リアル(?)な造りである。池の周辺には、河童の像(兄のガタロウ)や、妖怪2体も設置されており、これらも、子供達の人気を集めているようである。ただ、河童の浮上は15分於きなので、圀男の生家を訪問することにする。 13:37、生家に到着する。自身でも"日本一小さな家"と語っている通り、舞岡公園の"古民家(2016年12月2日参照)"に比べるべくもないが、思ったほど粗末な建物ではない。中に入ると、4間しかなく、ここで10人(両親&8人兄弟)が共に生活していたとは、俄かに信じがたい。近くにある、"柳田圀男松岡家記念館"に有ったパンフレットには、『長兄は二十で近村から嫁を貰った。しかし私の家は二夫婦の住めない小さな家だった。(中略) 一年ばかりの生活で、兄嫁は実家へ逃げ帰ってしまった。(後略) 私(注:6男)は、こうした兄の悲劇を思うとき、"私の家は日本一小さい家だ"ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささという運命から、私の民俗学への志も源を発したといってもよいのである。・・・』とある。更に先程気になった"溜池"に関しても、『私が辻川にいたころは、茨城県から長兄(注:離婚⇒東大医進学⇒茨城県で医院開業)が送金してくれるのだが、私は北条の町まで二里、為替を取りにやらされるのがつねだった。(中略) 北条と辻川の間、群境の所に大きな池が三つほどあり、淋しい、追剥の出そうな所であった。』とある。更に、河童についても、『辻川あたりではカッパはガタロというが、随分いたずらをするものであった。子供のころに、市川で泳いでいるとお尻をぬかれるという話がよくあった。それが河童の特徴なわけで、私らの子供仲間でもその犠牲になったものが多かった。』とある。その解説には、圀男自身もここで遊んでいた際、流れに引き込まれて、あやうく死にそうになったことが記載されている。つまり、先程の池端にあった河童"ガタロウ"は、この"ガタロ"が元になっており、持っていた玉が、尻からぬかれた玉ということになる。更に、河童の原点は、遠野物語の舞台となった花巻ではなく、郷里の福崎町にあると言えそうである。以上、パンフレットに記されていた話は、圀男が84歳の時に、200回にわたって神戸新聞紙上に掲載された内容の一部で、改めて取り寄せて読んでみたいものである。ここから、JR福崎駅に向かったものの、結局タクシーが捕まらなかったので、炎天下の中、延々1時間程も歩く羽目になる。熱中症にもならず無事帰れたのは、日頃ウオーキングで鍛えているせいであろうか。 今回は、義兄の法事の序に、加西市の神社仏閣と柳田圀男の故郷を探訪した。改めて、圀男の生き様に興味を覚えたので、別途茨城県取手市にある"柳田圀男記念公苑"も、大山さんと共に訪問してみたい。 |