*** 2013年2月21日,22日 茨城県笠間市の歴史/文化探訪 ***
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2013年2月21日(木)~22日(金)にかけて、一泊二日で、大山さん/小林君(室蘭工大大学院⇒筑波大大学院)と共に、北茨城の歴史/文化探訪に出かける。本来なら、昨年秋に訪問予定であったが、諸般の事情で、"水戸の梅まつり"の時期まで延期となり、小林君は就活/研究と超多忙な時期での参加となった。初日は、昨年の桜川市真壁町(2012年2月4日参照)に引き続き、赤穂に所縁のある"笠間市"の文化/歴史を探訪する。 7:20、自宅横浜を後にし、一路"筑波柴崎交差点"に向かう。距離にして約110kmと左程ではないが、朝の首都圏の渋滞を考慮すると、所要時間は約2時間半というところか。だが、首都高速横羽線に入った途端、汐入から先が事故で大渋滞している。電光掲示板によると、渋滞は8㎞通過に1時間とか。ただ、焦ったところで、事態が好転するわけでもないので、諦めて渋滞の流れに任せる。更に、箱崎JCTでも万年渋滞に会い、筑波に到着したのは11時前となる。ここで小林君をピックアップして、最終待ち合わせ場所の"笠間SA"を目指す。所が、今度はNAVIが不調となり、大山さんと合流できたのは、当初の"笠間SA"でなく、"茨城県陶芸美術館"とあいなる。 時計を見ると12時を優に回っており、芸術観賞は後回しにして、一先ず近くの蕎麦屋"一兵衛"にて腹ごしらえをする。流石に大山さんが選んだ店だけあって、香り/こし共申し分ない。ただ、何処かで聞き覚えのある店名と思っていたところ、はたと、室蘭の焼き鳥チェーン"一平"が思い浮かぶ。これも何かの御縁であろうか。 好物の蕎麦を堪能したあと、陶芸美術館に入ったところ、何と館内はカメラの持ち込み禁止である。絵画じゃあるまいし、理解に苦しむが、ここはルールに従うしかあるまい。広い館内には、近代の名品が、整然と展示されている。私自身は、陶芸に関しては全くの門外漢であり、順にさっと観賞していたところ、"板谷波山"の"葆光彩磁葡萄文様花瓶"の前で、はたと足が止まり、その上品な彩磁に見とれてしまう。その隣の"氷華磁延壽文花瓶"も、青みがかった白磁に浮き出た文様が、何とも見事である。ふと、この微妙な色彩形状を、写真で再現したい衝動に駆られるが、肝心のカメラを取り上げられていては、正にお手上げである。結局、建物の外観だけを撮影し、次の目的地"笠間日動美術館"に向かう。 14:35、美術館入口に到着する。ここでも、チケット購入の際に、館内の撮影禁止を申し渡される。私自身は、フラッシュさえ焚かなければ、絵画に悪影響が及ぶ訳でなし、撮影を許可すべきと思うのだが。実際、ウイーン美術史美術館(2009年8月27日参照)では、フラッシュを使用しないことを条件に、撮影を許可している。 端的に言えば、これは日墺の価値観の違いであろうが、客の立場を考えれば、どちらが正しいか言うまでもない。館内に入ると、名だたる画家の作品が、次々と現れる。これらを、我がHP上で紹介できないのは、残念至極であるが、敢えて代表的な作品名のみを列挙すると、"十六歳の麗子像(岸田劉生)","C夫人像(アンディ・ウォホール)","泉のそばの少女(ルノワール)","村の通り(赤い家並)(シャガール)","橇(そり)を引く馬(ロートレック)","サン=ミレの道(ゴッホ)"というところか。 その他、有名画家の数百点にも及ぶパレット画も、普段中々見られない光景である。自身でも絵を嗜む小林君は、食い入るように名作を見つめている。ここで、屋外の"彫刻庭園"に向かうと、見事な竹林をバックに、多くの裸婦像が並んでいるが、こちらは勿論撮影可である。ここから徒歩で、旧大石邸跡に向かう。 15:45、旧大石邸跡に到着する。入口の看板には、代々の笠間藩の家老屋敷があった地と記されているが、200坪弱程度しかなく、1500石もの高碌を食む家老邸にしては、いささか狭すぎる感じがする。従って、ここは、旧邸の一部ということであろう。大山さんとこんな話をしつつ、ふと足下を見ると、小さな石碑が目に留まる。それには、"第二十回義士親善友好都市交流会議開催記念 平成二十年十一月一日"と刻まれており、実際にここで赤穂に所縁のある都市が、交流会を実施した模様である。そこで、別途ネット上で"義士親善友好都市交流会議"で検索してみると、別名"義士サミット"とも呼ばれ、平成元年より、赤穂に所縁のある31自治体による交流会がスタートし、毎年持ち回りで開催されていることが分かる。つまり、この自治体には笠間市を始め、昨年訪問した桜川市、加西市も含まれている訳である。また、北海道の加盟2都市のうち、小林君の出身地である滝川市が入っているのも、何かの不思議なご縁であろう。 次に、旧大石邸脇の坂道を5分程登ると、佐白山城址公園に到る。ここは、笠間城主の下屋敷跡で、その一角には、何故か討ち入り姿の大石内蔵助像も立っている。 つくば新聞によると、大石内蔵助像建立は1972年、後述する"義士顕彰碑"は更に古く、1963年に遡るとか。また、討ち入りの12月14日には、毎年"笠間義士会"によるパレードが行われ、平成24年度で45回を数えたとか。所で、江戸初期の笠間藩は、浅野氏/大石氏が三代に渡って夫々藩主/城代家老を務め、最後の浅野長直/大石良欽(よしたか)の時代に、赤穂に移封になっている。赤穂以降は、更に三代あとの浅野長矩(内匠頭)が、1701年に殿中松の廊下にて吉良上野介に対し刃傷に及び、その1年10ヶ月後に大石内蔵助が吉良邸討ち入りを果たすことになる。つまり、内蔵助が実際に笠間に住んだわけではないが、祖父良欽に所縁のある地で、赤穂義士を巡るイベント活動が、積極的に行われていることになる。話が脇道にそれたが、公園脇には"義士顕彰碑"があり、その隣には、その謂れを記した"義士顕彰碑建立記"のプレートも見受けられる。これには、「誠は人の道にして古今を貫く大道たり。赤穂義士をして感奮興起せしむるものは己を空しうして尽忠の誠をつくしたるによるなり。・・・」と、赤穂浪士の忠義を称える文面が刻まれている。一方、新渡戸稲造の世界的名著「武士道(原題:Bushido, the Soul of Japan)」にも、赤穂四十七士の義を高く評価する記述が見られる。即ち、《「義士」という称号は、学問や芸術を意味するどのような称号よりも優れたものと考えられた。我が国の大衆教育で、しばしば素材として利用されている四十七人の忠臣は、俗に「四十七義士」として知られている。・・・》とある。自己中心的な国や人間が益々増長する昨今、義を尊び卑怯を戒めることの大切さを、改めて学習し直すべき好機ではなかろうか。 16:08、ここから更に佐白山山頂の"笠間城址"を目指す。大山さんも、病み上がり後の登山とあってか、何時になく息が弾んでいる。それでも、20分程度で笠間城八幡台櫓跡に到着する。ここには、笠間城の全体図が掲げられており、佐白山全体が壮大な砦であったことが分かる。更に、本丸跡の一角には苔むした石垣が残り、往時の面影も窺い知ることができる。ここから、山を下り、本日の宿となる割烹旅館・城山に向かう。 総歩数:約10000歩 登りの厳しさ:▲ |