*** 2019年9月25日 桜田門周辺の歴史探訪 ***
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9月25日(水)、東京地裁で打ち合わせがあったので、早めに出かけて、皇居桜田門周辺を探訪することにする。今春(2019年4月12日参照)は、桜田門から二重橋まで往復したので、今回は"桜田門外の変"の"旧井伊家上屋敷(現国会前庭北庭)"を散策する。改めて、当時の古地図を参照してみると、"旧井伊家上屋敷"は、親藩の松平家より広大な敷地面積を有しており、如何に強大な権力を有していたか、窺い知ることができる。 13:10、東京地裁を素通りし、先ず"旧上杉藩邸跡"を訪れる。現在は、法務省の一角に、小さな石碑が残存するのみだが、嘗ての名門だけあって、それなりの家屋敷を有していたようである。だが、外様のせいか、周辺を親藩の松平家に囲まれているのが、面白い発見ではある。これは、国元でも同様で、米沢藩隣の庄内藩には、譜代大名の酒井氏を配しており、絶えず監視の対象になっていたようである。所で、米沢藩と言えば、藩政改革を行った"上杉鷹山"が有名で、『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり。』他の名言を残している。鷹山(以下治憲)自身は、日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男で、10歳で米沢藩主・上杉重定の養嗣子となり、実際にこの米沢江戸藩邸に移り住んだようである。なお、改革については、鶴岡市(旧庄内藩)出身の作家"藤沢周平"の絶筆"漆の実のみのる国"に詳しい。ただ、この小説は、改革そのものより、旧家老の森一派と治憲が重用した竹俣当綱との抗争が中心になっており、手に汗握る展開ではあるが、鷹山の改革を称える内容にはなっていない。ここから、"旧井伊家上屋敷跡"に向かう。 13:23、"国会前庭南庭公園"に到着する。Wikipediaには、『江戸時代は黒田氏や浅野氏の屋敷、明治期以降は有栖川宮邸を経て、霞ヶ関離宮となった。』とあるが、江戸古地図からすると、この辺りも"旧井伊家江戸上屋敷"の一部であったような気がしてならない。それはともかく、中々美しい公園で、"クスノキ"の緑が目に染み入るようである。また、園内には小川もあるが、先日の台風15号の影響で落葉に覆われており、係の方が清掃に躍起になっておられるので、撮影は控えさせて頂くことにする。次に、国会前交差点を渡って、"旧井伊家上屋敷"があった"国会前庭北庭"を目指す。 13:35、門を潜ると、艶やかな"キョウチクトウ"が目に留まる。夏場は、どこでも見かける花なので、特に気にしなかったが、改めて眺めてみると、中々美しい花ではある。坂道を登りきると広場が現れ、ここが大邸宅の中心であったようである。その西側には、高さ数10mもありそうな"時計塔"が聳えている。南側には、"日本水準点説明版"があり、これには明治45年に標高24.5mと定められ、震災の度に、この値が変化したことが分かる。この石碑の隣にある石造りの建物が、"日本水準原点標庫"ということになる。東側に回ると、眼下に"桜田門"が望める。"桜田門外の変"が有った朝、井伊直弼一行は、雪の坂道を難渋しつつ下って行ったことになるが、改めて水戸"千波湖"近くにあったオープンセット(2013年2月22日参照)を眺めてみると、平坦地となっており、距離も短縮されていたことがわかる。狙いは、経費節減にあるのは言うまでもないが、この程度の違いは許容範囲と言うところか。打ち合わせ時間が迫ってきたので、桜田門を経て東京地裁に戻る。 |