*** 1997年7月20~30日 ロンドン/ハイデルベルク/パリ/シュタイヤー/ザルツカンマーグート ***

1.アムール川1 2.アムール川2 3.アムール川3 4.搭乗した
BA機内より
5.ヒースロー
空港周辺1
6.ヒースロー
空港周辺2
7.ヒースロー
空港周辺3
(ウインザー城)
8.ヒースロー
空港周辺の
風景4
9.ヒースロー空港 10.早朝の
ハイドパーク1
11.早朝の
ハイドパーク2
12.早朝の
ハイドパーク3
(ナナカマド1)
13.早朝の
ハイドパーク4
(ナナカマド2)
14.早朝の
ハイドパーク5
(サーペンタイン湖)
15.早朝の
ハイドパーク6
(ポプラ)
16.ランカスター
ゲイト
17.ハイデル
ベルク城1
18.ハイデル
ベルク城2
19.ハイデル
ベルク
路地裏
20.ハイデル
ベルク城
への道
21.ハイデル
ベルク城3
22.哲学者の道 23.ハイデルベルク
・聖霊教会
24.カール
テオドール橋1
25.ネッカー川 26.城壁のキキョウ 27.城門塔 28.火薬庫1 29.火薬庫2 30.ハイデル
ベルク城4
31.カール
テオドール橋2
32.ハイデル
ベルク
中心部
33.エッフェル塔1 34.エッフェル塔2 35.シャイヨー宮 36.凱旋門 37.アンヴァリッド1 38.アンヴァリッド2 39.モンマルトルの丘 40.セーヌ川
41.聖ミハエル教会1 42.聖ミハエル教会2 43.ホテル・
ミニヒメイヤー
44.高台の教会風
レストラン
45.ランベルク城入口 46.城内庭園のバラ1 47.城内庭園のバラ2 48.Stadtpfarrkirche
Steyr 教会1
49.シュタイヤー
路地裏1
50.シュタイヤー
市中心部1
51.シュタイヤー
市中心部2
52.シュタイヤー
市中心部3
53.中世の町並1 54.中世の町並2 55.シュタイヤー
路地裏2
56.ノウゼンカズラの
生垣
57.トラウン湖1 58.トラウン湖2 59.トラウン湖3 60.Langes Zwiesel山1 61.トラウン湖4 62.オルト城1 63.トラウン湖5 64.Langes Zwiesel山2
65.オルト城2 66.オルト城3 67.トラウン
シュタイン1
68.トラウン
シュタイン2
69.ザルツカン
マーグート
の山並1
70.ザルツカン
マーグート
の山並2
71.Langes Zwiesel山3 72.イワギキョウ1
73.トリカブト1 74.セイヨウタンポポ 75.ランヌクルス
・レペンス1
(キンポウゲ科)
76.アカツメグサ
&イワギキョウ
&セイヨウタンポポ
77.アルペンローゼ1 78.リリウム
・マルタゴン
(ユリ科)
79.ランヌクルス
・レペンス2
(キンポウゲ科)
80.シレネ
・ブルガリス(白花)
&クジャク蝶
&アルペンローゼ2
81.トリカブト2 82.紫の花
(サギゴケ類か)
83.シャーフ
ベルク山1
84.シャーフ
ベルク山2
85.石灰岩の山肌 86.鋸状の山脈 87.ザルツカン
マーグート
の山並3
88.ザルツカン
マーグート
の山並4

 古いスライドを整理していた所、1996年7月にヨーロッパに出張した際の写真が見つかったので、スキャナに取り込んで、第二弾としてHPに掲載することにする。ただ、当時を振り返ると、この出張が、私が第二の人生を歩むきっかけになったとも言えるので、改めて当時を思い出しながら記録することにする。
 7月20日(日)、先ず流体解析ソフトSTAR-CDの開発元であるCD社と打ち合わせのため、成田発BA008便にてロンドン・ヒースロー空港に向かう。同行者は、流体解析が専門のS君で、彼は鉄道マニアでもあるため、列車で移動する際は何とも心強い。13:10定刻成田を出発し、約3時間半で沿海州に入ると、間もなくして"アムール川"上空を通過する。実に雄大で、どれが本流か見分けが付かない。実際に、ここを通過するのに、ジャンボ機で数分はかかるので、ざっと言って幅100㎞程もあることになる。余談ではあるが、この上流並びに支流の"ウスリー川"は、中露国境付近を流れ、同支流の中洲・"ダマンスキー島(中国名珍宝島)"で、1969年に中ソ国境紛争が発生している。だが、1997年の出張時点でも、未だに国境線が確定しておらず、最終的に川の中間点で決着したのは、2004年までずれ込むことになる。先日のブログ(1996年6月12日~22日参照)でも紹介した通り、1989年の"ベルリンの壁崩壊"をきっかけに、1991年の"ソ連崩壊"へと進み、旧ソ連を引き継いだ新政ロシアの国力低下が、交渉を長引かせた要因であったのは言うまでもない。私自身も、その翌年の2005年に、国際関係論の授業で、この国境紛争問題を取り上げることになるとは、夢にも思っていなかった訳である。
 18:10、約13時間のロングフライトの後、BA機は無事ロンドン・ヒースロー空港に滑り込む。東京‐ロンドン間には8時間(夏時間)の時差があるため、日本時間に換算すると、翌21日(月)早朝02:10到着となるが、時差ボケの程度を軽くするためには、現地時間に合わせ眠らないことが肝心である。21:05、"ランカスターホテル"の部屋からは、真下に"ハイドパーク"が見られ、その先の西の空に真っ赤な太陽が沈んでいく。1990年秋、このホテルにて、スパコン最大手(当時)・クレイ社主催のシンポジュームが行われ、3日間逗留したのも、何かのご縁であろうか。
 7月21日(月)06:00、時差ボケで安眠できなかったため、ホテル傍の"ハイドパーク"を散策する。普段はロンドン市民憩いの場になっているが、流石にこの時間帯は、数人がジョギングを楽しんでいるのみである。更に、公園奥にある"サーペンタイン湖"に向かっていると、朝日が芝生に射し、絵も言えぬ雰囲気を醸し出している。その傍では、真っ赤な"ナナカマド"の実が、朝日に輝いている。この樹は、室蘭では街路樹に良く用いられていたが、ロンドンと気候が似通っているせいであろう。"サーペンタイン湖"に辿り着くと、眼前に広大な湖面が広がっている。まさか、ここを一周する訳に行かないので、ここからホテルに戻ることにする。その後、昼食を挟んでCD社と打ち合わせた結果、今後導入予定の"STAR-CD"が、高精度の流体解析ソフトであることが確認できたので、安心して夕方のフライトで、ベンツ本社がある"シュツットガルト"に向かう。ただ、いすゞ自動車とベンツ社とは業務提携の関係にないため、本来なら秘匿性を有する開発部門同士の打ち合わせは不可能であるが、個人的に同社の開発責任者と懇意な関係にあるK常務のお世話で、やっとこの技術交流が実現した訳である。ただ、お互いに利害関係がない分、単なる技術発表会に終わっては無意味であり、正に真剣勝負であるとも言える。
 7月22日(火)、ベンツ社との打ち合わせは午前中に無事終了する。業務上のことなので内容は省略するが、真摯な討論ができ、お互いに有意義な一時を過ごすことができたと確信する。その後、社内にあるベンツ博物館をご案内頂く。ここには、1899年製造のベンツ一号車からガルウイングクーペ・300SL、更には最新のレーシングカーまで、整然と展示されており、車好きにとっては耽溺の的であろう。なお、この博物館はツアー客にも開放されているので、定期的に大型バスが横付けしている。
 7月23日(水)、シュッツガル北西約100㎞にある"バインハイム"に向かう。この地には、ベンツ高級車にも採用されている防振ゴムメーカ・フロイデンベルク社の本社があり、今回は、同社独自の油圧式アクティブエンジンマウントのレベル把握が目的である。これは、私のライフワーク(生涯研究)にも関係し、従来の防振ゴムとの振動レベルを比較する上で、貴重な体験となった。夕刻、同社のご厚意で、約100㎞北にある古都"ハイデルベルク"観光に出かける。日本人駐在員のTさんは、ご自身のベンツSクラスに我々を載せて、速度無制限の"アウトバーン"を時速約200km/hで激走する。実際に、このスピードで車線変更(レーンチェンジ)しても、車体がふらつくことなく瞬時に収束する。正にベンツの本領発揮というところだが、このスピードで安全に走行するには、やはりベンツSクラス並のハイパワーエンジンと、強靭なボデー&サスペンションが必要なのであろう。そうこうする内に、約40分で"ハイデルベルク"に到着する。"ハイデルベルク"は、ネッカー川沿いに発達した中世の城下町で、この川を挟んで、北側にヨーロッパ最古(14世紀創立)の"ハイデルブルク大学"、南側に荘厳な"ハイデルベルク城"が建っている。同大学卒業生としては、哲学者の"ヘーゲル,ヤスパース,ヒルティ―"他が有名であるが、自然科学分野でも数多くのノーベル賞受賞者を輩出しており、ヨーロッパ屈指の名門大学であるのは間違いない。大学の裏山には、"哲学者の道"と言われる散策路があり、"ヘーゲル"他の哲人が、この道を散策しつつ思索に耽ったと謂われている。所で、京都にも"哲学の道"があるが、Tさんによると、こちらが本家本元とか。所で、"哲学の道"は、"善の研究"で有名な哲学者"西田幾多郎"に由来するといわれているが、彼自身はドイツ留学経験はないので、名付け親とは言い難い。では誰かということになるが、その辺に興味のある方は鎌倉東慶寺訪問時のブログ(2004年8月16日参照)をご覧頂きたい。私も、学生時代の一時期に、北白川に下宿していた関係で、何度も散策した思いで多きコースでもある。次に、坂道を登って"ハイデルベルク城"に向かう。正面には荘厳な城郭が望めるが、裏側に回ると、片半分が破壊され剥き出しになった"火薬庫"が望める。正に"兵どもが夢の跡"の雰囲気だが、Tさんによると、17世紀末の仏軍との戦闘で、独軍自らが火薬庫を爆破し城を離れたとか。考えてみれば、残留火薬を処分して城を脱出する方が、より現実的のような気がする。ネッカー川沿いのレストランで夕食後、シュッツガルト空港まで送って頂き、次の目的地パリに向かう。
 7月24日(木)午後、パリ市内にあるESI社と、最新の衝突解析/流体解析について打ち合わせを行う。内容は省略するが、バージョンアップの度に、使い易さと精度が向上しているのが実感できる。その後のESI社との会食(大の苦手のエスカルゴ&フォアグラ)から解放され、這う這うの体でホテルに戻り、気分転換のためエッフェル塔付近を散策する。オーストリアと異なり、フランスの食文化は、私の体が受け付けないようである。なお、当時撮影したエッフェル塔を改めて眺めると、電光掲示板表示に2000年まで890日とあるので、これから逆算して撮影日を特定できたわけである。シャンソンに歌われたセーヌ川の畔まで下ると、水は濁っており、ドブ川のような悪臭まで立ち込めている。とてもじっくりと撮影する気分になれないので、早々に立ち去ることにする。
 7月25日(金)、疲労寿命解析ソフトFEMFAT導入打ち合わせのため、列車でシュタイヤーに向かう。途中ミュンヘンで車両が切り離され、その前半分が東側のオーストリアの都市に向かうことになる。なお、ヨーロッパの駅には改札は無く、誰でも乗り降り自由である。だが、席に着くや否や車掌がチェックに来るので、無賃乗車は不可能である。夕刻、ザンクト・ファーレンタイン駅で、シュタイヤー社の方にピックアップして頂き、本日の宿・ホテル・マーダーに向かう。このホテルは、シュタイヤー市中心部にあり、近くにはシューベルトが滞在していたアパートも残されている。既に午後7時を回っているが、この時間になっても青空が広がり、散歩を楽しむことができる。
 7月26日(土)、本日は休日であり、シュタイヤー社のご厚意で、リゾート地"ザルツカンマーグート"をご案内頂く。昨年同時期、いすゞ自動車関連3人で、その真っ只中にある"シャーフベルク山"を訪問したので、今回はその東側のトラウン湖にある"Feuerkogel山"(標高1592m)に登ることにする。 途中、トラウン湖畔中程にある"オルト城"を見学したあと、ロープウエイとリフトを乗り継いで"Feuerkogel"山頂に立つと、湖岸から一気にそそり立つ"トラウンシュタイン(標高1691m)"が望める。手前の石灰岩が露出するお花畑には、アルカリ土質に強いと思しき"イワギキョウ","トリカブト","セイヨウタンポポ","アルペンローゼ"他が開花している。なお、人気の"アルペンローゼ"は、日本の"ツツジ"に類似しており、名前のような"バラ科"ではなく、"ツツジ科"である。その花の群落には、見たこともない艶やかな蝶がとまっている。当時気にも留めなかったこの蝶(クジャク蝶)と、その10数年後に北海道・摩周湖(2010年10月1日参照)で出会えるとは、これも不思議な巡り合わせであろう。目を足元に転じると、艶やかな赤紫色の花が、地を這うように咲いている。花弁自体は"ツリフネソウ"に似ているものの、柄の部分が垂れ下がっていないので、どうやら別種のようである。Aさんに問い合わせた結果、結局"ムラサキサギゴケ"や"アゼナ"に近い品種と判明する。ふと西方に目を遣ると、"シャーフベルク山"の断崖が逆光の中に霞んで見える。ズームレンズを望遠側に切り替えると、垂直の壁に無数の深い溝が確認でき、風化石灰岩の山塊が織りなす特異な地形ということになろう。ここから、シュタイヤーに戻り、Dr.Krisper他と夕食を共にする。その際、彼の後継者であった開発責任者・Dr.W.Eichlsederが、シュタイヤー社を退職し、大学教授に転出したことを知らされる。同社にとっては大打撃であろうが、私自身も彼が別世界に行ってしまったことを思い知る。所が、青天の霹靂で、私もその4年半後に公募で高知工科大教授に転出することになり、同年8月のイスタンブールでの国際学会後に、"レオベン"で再会を果たすことになる。それ以降も、研究交流/国際交流両面で、一方ならぬお世話になった(2009年8月28日参照)のは言うまでもない。"縁は異なもの味なもの"とは男女間に対して言うようだが、内外を問わず、男性間にも当て嵌まるような気がしてならない。 

戻る