*** 2018年4月5日 茨城県高峯の山桜 ***
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3月後半の気温急上昇で、今年は桜の開花が10日余りも早まったので、高峯の山桜も昨年より9日早めて、4月5日(木)に訪問することにする。当初は、西側山麓の"間中"から、尾根道を通って第二展望台を目指す予定であったが、ここに至る林道が本日まで車両通行可なのと、私の体調も万全でないので、楽をして車で第二展望台まで行き、"滝桜"の絶景が期待できる"七曲りコース"を、歩いて下ることにする。 7:50、何時もの笠間PAにナビをセットし、自宅横浜を後にする。当初、朝の渋滞を避け、圏央道経由で向かう予定であったが、ナビのデーターが古いせいで、途中で迷走しても拙いので、昨年同様、首都高速ルートを取ることにする。最初の横羽線は、永年通勤時に利用したルートではあるが、湾岸線に比べて道幅が狭く且つカーブも多いため、緊張を強いられる。また、続く銀座線も、東京オリンピックのため急ごしらえのせいで、急カーブやトンネルの連続で、中々気が抜けない。だか、この難所を無事通り抜け、略予定通り目的地に到着する。考えてみれば、朝の渋滞に巻き込まれたのは、手前の原宿交差点付近のみである。大山さんには、大分お待たせしたようだが、相談の結果、先ず池亀のKさん宅を訪問することにする。 10:52、Kさん宅前に到着する。道端に我々の車を停め、庭を縁取る芝桜を撮影していると、大山さんが目ざとくKさんを見つけ、早速挨拶を交わしている。私も、後から近付き、1年ぶりに挨拶をしたが、言葉も明瞭で、認知症などどこ吹く風である。また、永年農作業に勤しんでこられた筈だが、腰も曲がっておらず、矍鑠(かくしゃく)とされている。今年米寿を迎えられる筈だが、とてもそのようには思えない。一方、昨年に比べて大きな変化があり、Kさんと共に若い女性が傍にいらっしゃる。話によると、Kさんのお孫さんのお嫁さんで、何と四国愛媛のご出身で、昨年から同居されるようになったとか。Kさんは既に御主人や弟さんを亡くされ、ここ池亀で、永年一人住まいをされていたが、これで我々も一安心である。最後に、"源平梅"の前で記念撮影をして、来年の再会を願ってお別れする。 11:40、平沢の山桜撮影スポットに到着する。ただ今年は、奥の民家に続く道が車両進入禁止になっていたので、手前の道路脇に駐車し、"シバザクラ"が咲く畦道に向かって歩くことにする。高峯の桜は正に今が見頃で、山頂までモザイク模様が続いている。ただ、この畦道に近付くと、"猪避け"と思われる電線や金網が、縦横に張り巡らされているだけでなく、アンテナのような高い塔も何本か設置されている。従って、シバザクラ越しに高峯の山桜を狙うと、これらが写り込んでしまい、折角の景観が台無しになってしまう。獣対策の重要性は分かるが、せめて山桜の絶景時期は、何らかの工夫が必要ではなかろうか。大山さんとそんな話をしつつこの場を離れ、山麓の駐車場を目指す。ここに私の車を駐車し、大山さんのSUVで、第二展望台に向かう。ただ、この林道には側溝があり、対向車とすれ違う際に脱輪する恐れがあるので、大山さんも慎重運転に徹している。 13:00、第二展望台に到着する。やはり思った通り、周辺の山桜はやや盛りを過ぎ、花吹雪が舞っている。この花吹雪を楽しみながら、ベンチで遅い昼食を取っていると、登山姿のご夫婦が近寄ってこられる。何でも、"高峯"からの下山中とのことで、御二人共中々の健脚の持ち主のようである。食後、ここから林道脇の山桜を狙っていると、先程のご夫婦が林道を下って行かれる。我々も、遅ればせながら、"滝桜"が間近に望めると思われる"七曲り"を、下ることにする。所が、豈図らんや、この道は"滝桜"の傍は通らず、薄暗い杉林の中を延々と下るのみである。仕方がないので、そのまま黙々と下りて行くと、林道が現れたので、その道に進むと、先程のご夫婦と再会する。我々はご夫婦とは合流せず、林道傍の山桜を撮りつつ、ゆっくり下って行くと、道路脇に"飛び石"が現れ、その奥に立派な石柱も確認できる。その前の看板には、"だいだら坊の背負い石"と記されているので、暫し寄り道することにする。数十メートル程歩くと、5~6個の巨石が現れる。筑波山のそれ(2012年2月3日参照)に比べると、規模は劣るが、それなりの迫力がある。Wikipediaには、民俗学の開祖"柳田國男(2017年5月21日参照)"が、『"だいだらぼっち"は、"大人(おおひと)"を意味する"大太郎"に法師を付加した"大太郎法師"で、一寸法師の反対の意味であるとしている。』と、嘗て中央公論誌上で述べているとある。一方、最大の巨石の傍には、立派な石碑が立っており、それには、『・・・。言い伝えによると、怪力の"だいだら坊"が、背負ってきたこの巨石の背負い縄がここで切れ、足でけって動かそうとしたが動かないので、そのまま置いて立ち去ったとのことである。・・・』と刻字されている。更に、『巨石には、そのときの縄目と、けった時にできたと言われている足跡が、今も風化せずに、はっきりと確認することができる。』とある。伝説は伝説として、改めて巨石に目を近付けると、灰色の緻密な組織の中に、鋭利な石のかけらを多く含んでいる。一方、"高峯"自体が火成岩の山塊であるので、この巨石は、火山灰が周辺の土砂を取り込んで、何年もかかって凝固した"礫質凝灰岩"と考えられる。更に、"縄目"のようなものは、何度か噴火した際の火山灰の境界層と考えると、辻褄があう。余計なことを考えているうちに、時間をロスしたので、林道に戻り更に下って行くと、日当たりの良い場所に、"ヤマツツジ","タチツボスミレ","ムラサキケマン等が開花している。駐車場近くまで戻ってくると、急に視界が開け、南方の空に"筑波山"や"加波山"が望める。西側の棚田の先には、数本の山桜が満開を迎えており、先程の団体が、超望遠レンズの放列を向けていた方向と一致する。つまり、彼等が狙っていたのは、花ではなく、花の蜜に寄ってくる"メジロ","ヒヨドリ"等の姿ということになろう。 14:11、やっと麓の駐車場に辿り着く。ここから、先程"第二展望台"に置き去りにしてきた大山さんの車を取りに、再度私の車で向かうことにする。その前に、駐車場の一角にある売店を覗いていたところ、店のオーナーと思しき女性が寄ってこられ、暫し立ち話をする。実に饒舌な方で、売り物のトマトの話から、嘗て日産に供給されていた用品にまで話が及ぶ。この方によると、当時この敷地内にあった工場で布製フロアマットを製造されており、納品のためのトラックが、ひっきりなしに押し寄せたとか。だが、社長がゴーン氏に代わってから、納品をストップされ、製造を中止せざるを得なくなったとか。私も、同氏の非情なコストカッターとしての逸話を、元社員からも色々聞き及んでいたので、その一部をご披露すると共に、私が嘗て勤務していたいすゞがその後左前になり、私自身も55歳で再就職活動の結果、大学に転出できた旨をお話しする。やはり、以前会社のトップを務められていただけあって、頭の回転も速く饒舌である。この間、20~30分であったであろうか。最後に、再会を願ってお別れする。改めて、ネット上でこの駐車場を検索してみると、何と先程の池亀のKさんと同姓と判明する。これも何か不思議なご縁であろう。14:45、第二展望台に到着する。早速下山すべきところだが、先程"七曲り"から"滝桜"を狙えなかったので、改めて第二展望台から標準ズーム及び超望遠で撮影する。これで、桜川の山桜を十二分に堪能できたので、ここを下って、最後に"五大力像(2012年4月19日参照)"が展示されている"月山寺"を訪問することにする。 15:17、"月山寺"に到着する。駐車場のそばには、可憐な"コヒガンザクラ"や艶やかな"ボケ"が開花している。寺院裏手から境内に入ると、眼前に見事な庭園が広がり、一番奥の高台には重厚な"千手堂"が鎮座している。とても、山里の一寺院には思えないので、別途Wikipediaでチェックしたところ、8世紀末法相宗の寺院として創建、13世紀に天台宗に改宗されたとある。更に、1626年(寛永3年)火災で一度焼失したのち、笠間藩主"浅野長重(二代目)"の援助により再建されたとある。その後、三代"浅野長直(2012年2月4日参照)"が赤穂に移封になるが、歴代の藩主の庇護が無ければ、これほど格調高い寺院は、維持できなかったのではなかろうか。本堂正面には枯山水風の石庭が配され、美しい砂紋が描かれている。天台宗の寺院には珍しいと思われるが、真壁の浅野家の菩提寺"伝正寺"が禅宗(曹洞宗)であるので、その影響を受けたのかもしれない。庭内は、丁度見頃になった"枝垂れ桜"が、石庭に旨く溶け込んでおり、特に石段下の"枝垂れ桜"が見事である。この石段を登り、"千手堂"を覗こうとしたが、硬く施錠されている。仕方がないので引き返し、最後に"五大力像"他が展示されている"月山寺美術館"を見学することにする。だが、こちらも施錠されており、見学不可である。そこで、諦めて本堂内で用を足して、戻ろうとしたところ、その間に大山さんがお寺の方と交渉して頂き、急遽見学が実現する。大山さんの的確な対応に、この紙面を借りて、お礼申し上げる。早速館内に入り、正面の"五大力像"を撮影しようとしたところ、急遽ストップを命じられる。何でも、著作権の問題で、館内は撮影禁止とか。仕方がないので、撮影を諦め、自分の目でチェックすることにする。先ず、平安時代後期の作と伝えられる"五大力像"だが、6年前に池亀の"五大力堂"にあった"菩薩像"を覗き見た際は、確か黒色であったと記憶しているが、改めて近くで眺めると、くすんだ朱色であることが分かる。つまり、これは防腐剤を兼ねた"漆塗り"ではなかろうか。横に回ると、数枚の板がコ形の釘で繋ぎ合わされており、所謂"寄木造り"であることも確認できる。他にも、重文の"網代笈(弁慶が背負った木製のザックのようなもの)も展示されているが、意外な大きさに驚愕する。2階に上がると、壁面に優美な天女の襖絵が掲げられている。大山さんによると、"木村武山"作で、岡倉天心のもと、横山大観、下村観山等と共に、日本画の近代化に努めた日本画家とか。満ち足りた気分で、桜川を後にする。 今回は、昨年に引き続き、山桜の絶景を求めて、大山さんと共に桜川市を訪問した。生憎、私の体調のせいで、登山は叶わなかったが、両Kさんの温かい人柄や文化に接し、常陸の春を十二分に堪能することができた。次回は体調を整えて、是非麓の"間中"から、第二展望台を目指したい。 ★活動量計データ(上り階段数:110,早歩き歩数:1478,総歩数:7737,歩行距離:6.1km,活動カロリー:1073kcal,一日総消費カロリー:2802kcal,脂肪燃焼量:38.1g) |